今回は「落語となわとびのこと」。
あるマンガを読んでいたら、そのせりふになわとびのことが浮かんだ。
月刊アフタヌーンで連載されている『こたつやみかん』(秋山はる・作)。落語大好きな高校生のお話。(以下、引用部分は今月号の第15幕「張った張った!」からです)
今は高校生落語選手権の予選の話が続いている。主人公の日菜子は、顔見知りのプロ級の他校生の高座を聴いて、自分の出番を前に姿を消してしまう。落語のすごさ、楽しさが改めてわきあがってしまい、もし失敗したら、
――もし お客さんに受け入れてもらえなかったら
大切に大切にしてきたもの
失っちゃう気がして……
子どものころから落語が大好きで、やっと高校で仲間を見つけて、波風ありつつも大会までやってきた。落語好きにとって一世一代の見せ場で揺れた心。そんな日菜子にはっぱをかけてくれたのは、落語初心者の後輩だった。
覚えてます?
「ひとりだからこそなんだってできる」――って先輩の言葉に感動して
私 落研に入ること 決めたんすよあれから毎日毎日
新しい自分を作っていくのが面白くて しようがないんっすそれを教えてくれた先輩が
いつまでもちっこい箱庭で遊んでてどうするんすか
ここで、思わず自分を重ねてしまった。
新技を覚えるのが楽しかったとき。
覚えた限りの技を詰め込んでフリースタイルを作ったとき。
ある段階まで来て、3重跳びも、レッグオーバー系の技も、回数が伸びない。リリースは安定しないのにこれ以上うまく回せず、交差ですぐ悪い癖が出る。楽しいのに、人に見せられるところまで自分を持っていけない。
一方で、動画を見ていると、まだまだ挑戦してみたい技やつなぎかたが発見できて、次に縄を持つときが楽しみで仕方ない。やっぱり、跳び続けずにはいられないのだ。
同じ噺を 今までいったい
どれだけの人間が演じたんだろうどれだけの人間が聴いたんだろう
こんなことを思いながら、日菜子は高座に上がった。
落語も演技。なわとびと違って、創作落語でもない限り、噺は決まっている。同じ噺であっても、今まで観客をわかせてきて、これからも「笑い声を響き渡らせる」のだ。きっとなわとびも、1つ1つの技は同じものでも、構成で、あるいは技単体であっても、見た人に何かを与えられる。
そして演技者もまた、楽しかった気持ちを、思う存分こめて、伝えられるだろう。
なわとびの絵じゃない? でも、きっと同じ姿ですよ。
お客さんの拍手。仲間のうれしそうな顔。そして演じきった日菜子の笑顔。
なわとび好きにとっても、大切な1話でした。
今 この瞬間は――
私の噺のぶんだけ
時計の針が進んで
やってきた未来なんだ