今回は「1年間のこと」。
今、へこんでいる。
学校は春休みになり、ひさしぶりに体育館で跳んだ。今回は、初めて自分の跳ぶ姿をカメラで撮った。普段は公園なので、これまで人前で撮影しづらかったのだ。そうして初めて「外から」見た、自分のフリースタイル。
な、なんだこれ。こんなに体が崩れてたのか……。
多回旋やリリースはへっぴり腰だし、側転は足が曲がってるし、最後まで見終えたところで頭を抱えた。こんな演技を、練習場所の公園で見せ続けていたのだ……。
なかなか人がやらないスポーツで、いろんな技を跳べるようになって、せめてそれだけは自慢だった。でも、それは外の目を意識しない、美化された姿だったのだ。たしかに縄は通っている。崩れた姿勢を抜きにすれば……。
今の小学校に来て、1年がたとうとしている。シーズンが来てから、すこしずつ子どもと跳ぶ機会に恵まれた。いろんな技で子どもを驚かせたいというわがままもかない、「なわとびの神」とか「なわとび先生」なんて呼んでもらえるようになった。
それでも、物足りなさはあった。いろんな技を見せても、子どもたちが乗ってこなかったことだ。リクエストはしてくれるけれど、僕の技を見るだけ。あとは自分の伸ばしたい技に戻ってしまう。
そんな日が続いて、子どもに混じって大人がやりたいことをやっているだけだと気づいた。学校という子どもが主役の場所で、1人でなわとびの世界を広げようとしても、それは押しつけなのだ。子どもは、新しい世界を見せてもらうより先に、自分を見てほしい。
ひたむきに、ただひたむきに。
失敗してもそれなりに楽しそうに跳ぶ子どもたち。
おそらく、あの子たちの大多数は、卒業すれば今より真剣に跳ぶことはない。技を覚えるチャンスがあるとすればこの時期だけだ。へたっぴでも、教えられる人もここにいる。それでも、「子どもから」そういう雰囲気にならない中で、ごり押しはできないと思った。
今は、子どもからの2重跳び勝負にこたえ、何か技に挑戦している姿があれば応援し、ついでにちょっとだけ自分でも技を練習する、くらいがちょうどいいのだろう。それが「みんなで跳ぶ」ということ。その姿はなわとびを持った人たちの「対話」であり、「ふれあいの場」になっているのだと思う。
それに、小さな幸せがどれだけあったか。
僕の「3重跳びとびなわ」を見て、ホームセンターで買ってきた男の子が、3重跳びを見せに来たとき。
僕のTSを見た女の子が、別の時間に1人で挑戦しているのを見たとき。
卒業していった6年生が、リリースを見せるたびに「観客」になって声を上げてくれたとき。
そして、いつもなわとび台に集まってくる3年生や4年生の子と跳んだ時間。
もし、子どもたちの言う「なわとびの神様」がいたとしたら、この小学校に来たことで幸せを与えてくれたのかもしれない。でも、そう言ったら、素知らぬ顔で返されるだろう。
――ばか言うんじゃないよ。あんたが跳ばなきゃ起こらなかったことだろう。都合よく神様をあがめるな。自分で縄を握ったんなら、自分で跳びきって見せろ。きれいに跳びきって見せろ。
子どもたちの中に入る姿も、求められて跳ぶ姿も、見る側が気持ちいいものでありたい。わがままを出して子どもをしらけさせることなく、技を狙ってフォームを崩すことなく。
だったら、せめて上手に跳べるようにならないと。
へこんだけれど、うまくなりたいと思った。