とびまるの「なわとびのこと」

なわとびのことを書いたり描いたりするブログ。

042 こたつやみかん、もう一席

今回は「落語となわとびのこと」。

029 こたつやみかんで書いたマンガ、『こたつやみかん』。

実は先月号で連載が終了した。残念だし、日菜子たちの新しい話を見られないのはさびしいけれど、最後まできれいにまとまった作品だった。いつまでもお幸せに、と願わずにはいられない。

さて、最後まで読んで、手元に置いておきたくて、既刊の1~3巻を買った。歩いた道というのは、振り返るとずいぶん違った姿に見えるものだが、最後まで読んだ本もそれと似ている。連載中はそんなに感じなかったことが、今読み返すと、新しくいくつも飛び込んでくる。


連載前の読み切り。ほとんどここから連載といってもおかしくない序幕「目には青葉」(1巻)で、日菜子は初めて落語を演じる。でも、観客の同級生はまったく笑ってくれない。そんな日菜子の落語に、同じ落語好きの転校生・真帆は気づく。

――これは 典型的な“素人落語”!!

覚えたことをアウトプットすることでいっぱいいっぱい
焦りから言葉を食ってしまうこともしばしば

結果 間も何も無くなってしまう
客は笑い所を見失う

突き刺さった。フリースタイルをやった人なら、誰もがいつかは気づく落とし穴。この、言葉にすれば数行程度を読んでいるあいだにも、自分が「ただ必死に跳んでいるだけ」の姿がいくつも浮かんでは、振り払われるように消えた。

そう、跳ぶだけで「見る側」に気持ちを寄せられない演技は、一方的なフリースタイルでしかない。なわとびなら、見た目だけでもすごいと言ってもらえるかもしれない。でも、じきに見る側は「見させられている」ことに勘づく。ましてや、噺の向こうに登場人物の了見や情景が見えなければしらけてしまう落語なら、どれほどのものか。

……全部 覚えてたの ……完璧に

でも……
どうしても続けられなかった……

噺を打ち切って幕にしてしまった日菜子は、廊下であふれる涙を止められなかった。

これは自分自身だと思った。これから僕もさらすかもしれない姿。フリースタイルまで挑戦する人って、きっとどこかで拍手や歓声を欲しがっていると思う。むしろ、その理想が当たり前になって、心が舞い上がってさえいる。でも、そんなうまくいくものなのか。日菜子みたいに、あっけなく地に落ちるのが普通ではないのか?


そこから始まった落語研究同好会。表情豊かに笑って泣いて喜んで、だから結構いじられつつも、日菜子は仲間と落語に身を寄せていく。

落語を語るとき、仲間を評するとき、いくつも「演じるとは何か」を考えさせられるせりふが行きかっていた。連載中に読んでいたころには、あまり響かなかったシーンが、並行してフリースタイルを続けてきた今、新しく響く。

フリースタイルに挑戦し続ける限り、特別な意味を持つ作品になると思う。


そして何より、何かが好きで打ち込めるって幸せだと思った。

最終回の前、第16幕「思わず知らず」で、日菜子が真帆にお礼を言うシーンがある。

うん――
真帆ちゃんもありがとう

どうしてありがとうと言われたかわからない真帆。そのあとの日菜子のモノローグと、そこで描かれた笑顔で演じる日菜子のイメージに、思わず泣きそうになった。

1つは、なわとびを好きでいられることがどれだけ幸せなのか、実感したから。落語が好きで好きでたまらなくて幸せそうな日菜子の姿に、楽しそうになわとびをする自分の姿が重なった。きっと僕も、心をのぞきこめば、同じように笑顔でいるに違いない。大人になってもう一度なわとびに出会えた自分は幸せ者だと思う。なんだか素直に幸せで、胸がつまった。

そしてもう1つは、日菜子の幸せが心に迫ったから。日菜子は、落語を分かち合える人がずっといなかった。もともと小心者で無口で、きっと日菜子自身、演じる側になるなんて思っていなかったと思う。そんなひとりぼっちで、落語だけが友だちだったような彼女がここまで来たのは、寄席に行った帰りがけに、転校生の真帆に声をかけられたから。それは文字通りこの物語の始まりで、日菜子が胸を張って落語を愛せるようになったきっかけだった。

よかったねという気持ちと、読んでいたこっちまで幸せになれた喜び。

だから何度でも言いたい。いつまでも、お幸せに。

ありがとう

あのとき あの寄席で
私を見つけてくれてありがとう

ありがとう

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