とびまるの「なわとびのこと」

なわとびのことを書いたり描いたりするブログ。

209 天才の軽さ

今回は「腕前のこと」。

世界大会の動画をちょこちょこ見ていて、改めて感じたことがありました。

多少雑でも、必死に跳んでいる姿は「観客」として見ごたえがあります。一方、ささっと後ろ回しの背面クロスクロスをしているとか、軽々と4重系を跳んでいるのを見ると、すごすぎて置いていかれる感じがしました。

圧巻、というのに近くて遠いというのか、すごいのに物足りなさがあるというのか……。


天才は、難しいことを当たり前のようにこなすと言います。

難しいことをなんとかやりとげるのが努力家で、天才は難しくすら見えないから天才という差があるわけですね。努力家はすごく見えますが、天才は軽々としか見えないとも言えます。本当はすごいはずなのに……。

この、「すごい」と「軽々と」が近いのが天才の抱えるリスクです。

わかる人はすごいとわかる。でも、わからない人にはすごさが伝わりません。天才くらいになると、わかる人にだけわかればいいんだという場所にいることも多いので、あまり気にしないのかもしれません。

ただ、天才に近い人――なわとびで言えば、うますぎる人は、すごさを伝えきれないのかもしれない、と思いました。特に、単縄をあまり見たことのない人に見せたときに言える話だと思います。

速すぎて「わからない」とか、軽々と跳ぶから「軽々しく」見えるとか、うますぎるからこそのリスクがあるのでしょう。

バクマン。』という漫画家を描いたマンガで、ある漫画家が、自分のマンガのレベルが高すぎるから読者の評価が悪い、だから次の話は読者に合わせてレベルを落とす、みたいなことを主張して編集者とぶつかるシーンがありました。

だいたいこういうことを言いだすのは、そもそもレベルが高くなくてただのカン違いだったりするのですが、うますぎる人なら、これをやるのでしょうか。

人それぞれだと思いますが、あまりそういうイメージがありません。むしろ、今までどおりやるところにアレンジをしている気がします。アピール度を高めてみたり、パフォーマンス性を加えてみたり……。注目を集めて、見せるが「魅せる」になる演技にするのです。

このとき、うますぎるかどうかは別の話になってます。

それでも、うますぎるから「魅せる」演技にアレンジできます。やっぱり、天才は難しいことをアピールせずに、ただ見せられるものにしてしまうのでしょうね。


幸い、というのか、僕は天才でもなく、軽くも跳べません。

明日、学校の夏祭りで再び演技をします。

新しい演技です。4か月くらい、練習していました。去年のように緊張で吐きそうというほど追いつめられてはいませんが、それはもう、あきらめがついているだけです。

ちょっと機会があって、別の場所でこの演技をやって動画も撮ってもらいました。やっぱりぐだぐだで、10ミスくらいしました。ダメなときはダメだろうというあきらめはついています。ただ、それは自分の中での引け腰な納得であって、気持ちが割り切れれば合格レベルの演技ができるかといったら、そんなことはありません。

最近、見る人からすればほぼノーミスの演技ができました。

見る人からすればってなんだと言えば、タイミングをはずして跳べなかった技が3つもあったんですよね(笑)。でも、それ以外はほとんどひっかかりませんでした。跳んでるときはミスったと思ったんですが、それは自分の中のミスでしかなくて、観客には、間を取りながら、ほとんどミスなく跳び続けた演技に映っているはずです。

まあ、それも奇跡の1回に近くて、あとは5ミスで十分なくらいです。腕の広がった不安定なフォームも変わってません。ブログではいろいろ技術について書いてきましたが、努力するのに疲れてきて、結局、試すように技を跳んでいるだけの日々でした。

それでも(あまり考えなくても)、うまくいくときの感覚が積み重なっていけばいいんですが、僕にそれだけのセンスはありませんでした。

実力も自信も足りないなら、跳ばないという選択肢もあると思います。2年続けてしまったので、今の学校にいるあいだは、夏祭りだけは挑戦して、「今年のなわとび」みたいな感じで顔見せしようかな、くらいの気持ちです。

天才の軽さを得られないまま、どこまで跳べるかわかりませんが、跳んできます。

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