今回は「アドバイスのこと」。
なわとびを教えているとき、自分はなんのアドバイスをしているのか。
最近、あやとびを子どもに教えていて、そう思いました。
たまたま近い時期に、あやとびを子どもに教えました。
学校で後ろあやとび。児童クラブで前あやとび。教えた子は何回か跳べるようになりました。
ところが、実のところ、僕の伝えたアドバイスは結果が出ていません。
たとえば、「交差はおへその前がいいよ」。
たとえば、「跳ばずに交差だけ作ってみよっか」。
こう言いました。それで子どもがそのとおりにしたかというと、全然です(笑)。交差は相変わらず肩の高さで苦しそうだし、交差を作ると思わずジャンプしてしまう。
それでも、だんだんと成功に近づいて、いつのまにか2回、3回と跳べるようになるんです。
その子はいったい、どこでコツをつかんで跳べたのか?
おそらく、僕や他の子が跳べている姿を見て、タイミングをマネしたのだと思います。マネする中で、とにかく縄を飛び越せれば1回になる、それだけをめざしてタイミングをつかもうとしたのでしょう。
僕がなんとか言葉で伝えようとしたことは、自分なりのタイミングをつかもうとするのに精一杯なその子には届きません。人が考えているときに、考えていることに沿わないような声かけは、アドバイスではないのです。
むしろ、「タイミングを合わせやすいようにただ声をかける」だけでいいくらいです。
そんなことだれだってやってます。でも、自分でタイミングをはかろうとしている子にとって、周囲が声でタイミングを刻んでくれることこそ、アドバイスなのです。技術的なアドバイスは、その子が技術を求めているタイミングで助言するのがいいのでしょう。
気づけば僕は、その子の跳ぼうとしているタイミングであやとびをしています。教えるつもりが、その子に合わせています。
目の前で跳んでくれる動きのイメージ。あるいは縄の音。ジャンプの音。
これらが、ちょこざいな言葉がたばになってもかなわないようなアドバイスになっていたのでした。
いい選手がいいコーチとは限らないと言われます。
でも、上手ななわとび選手は、きれいな見本を見せられるし、子どもにタイミングを合わせて跳べるだけの技術を持っています。上手に跳べるだけで、アドバイスそのものなのです。
僕も、他の人の音や動きを見て気づくことは多いです。
あくまで自分の気づきであって、その人からのメッセージではありません。それでも、会ったこともないいろんな人にアドバイスをもらえている、そんな気がします。