とびまるの「なわとびのこと」

なわとびのことを書いたり描いたりするブログ。

301 「意識高い」が作る闇

(12/30追記:自分とは関わりの薄い人に、弱音や不満も含めた口出しをしているような内容でもありました。読んでいい気はしなかった、というかた、申し訳ありません)

 

今回は「理想のこと」。

苦手な人の技術の話を予定していたのですが……。

なわとびとは別に、すごく前向きというか、理想・意識の高い人の話を立て続けに読んでしまって、思うことがあったので先に書きます。

とりあえず思ったこと。「苦手な人は視界の外なの?」


「失敗の根本には逃げとか努力不足がある」

おおざっぱに言うとこんな感じ。この先には、そこを乗り越えるためには~~とか、乗り越えればあなたは変われて~~とか、ちゃんとだれかのために放った言葉があります。なので、別に悪いことを言ってるわけではありません。

ただ、ですね。それすらままならない人たちはどう受け止めればいいのか?

自分となわとびを例に出します。

体がゆがんでます。縄がゆがんで失敗することも多々あります。いろいろ試してみたんですけどまだダメです。これ、努力の空回りでしょうか。もっといろんな人にアプローチして、とことんアドバイスしてもらわないとダメですか?

単純に、そこまでがっつり取り組めないという人はいくらでもいます。でも、それが逃げとか努力不足とか言われてしまう。


だれでもそうあれ、と言っているように見えやすいんですよね。

たぶん、本当は主語が「めざす人は」とか、もうすこししぼったものになっているのだと思います。始めからそういう人向けだったり、Twitterみたいに字数制限があって向ける相手が省かれていたりして、一部の言葉だけが拾われてしまっているのかもしれません。

万能な言葉なんてそんなにありません。「悪いこと言ってるんじゃないんだから、いちいち例外を見つけてつっつくな」と言われればそのとおりです。自分に合わないと思えば、自分からスルーすればいいだけですからね。


だとしても、やっぱりあやういなあと思います。

選ばれた人だけ囲うようで、それ以外は視界から閉ざしているような、視界からはずされた人は闇の中みたいな、距離感があります。

これ、なわとび、特に単縄では起こりやすいですよね。

単縄は珍しい技を跳んで楽しむだけでなく、競技・パフォーマンスをめざしてがんばろうという人たちも多い世界です。大きな挑戦には、意識の高い言葉も必要になります。

ところが、今のせまい単縄の世界で、めざす系の人は同時に単縄の世界の代表でもあるのが現実。そこから意識の高い言葉が外にも広がっていくと、その言葉は壁になります。奮起できる人ならいいですが、その道の人の言葉がハードルに見えてしまったら、どうなのかな……と。

技を教えるときも近い瞬間がありますね。

子どもに教えると、できていない姿は指摘しやすいです。でも、失敗を具体的に指摘したって、それはただの事実・状況説明なだけで、わからない・できていないを突きつけるだけの場面になってしまったら(実際子ども相手だとそこで話が止まってしまうことは多い)、相手にとってはただの疎外感です。


高い理想、強い意識は、ときに視野がせまく見えて、それ以外を闇に入れてしまう。

あんまりいい話じゃないと思われたらすみません。

伝える側の気持ちは固まっていても、受け取る側は人それぞれ。全員に配慮したような言葉なんてありませんが、自分もどこかでだれかを捨てていないか、気にしながら書かないといけませんね。

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突きつけて試すよりも、寄り添ってすくいとれるのが、理想といえば理想です。