今回は「ルーティンのこと」。
理解していたようで、理解していませんでした。
「ランプだけじゃない。僕はいつも同じものを同じ場所に置く。飲料水、コンロ、ピッケルも、すべてね。こんなふうに、僕は登山時には常に同一の環境や行動で統一するように心がけている。どうしてそんなことをするのか? それは万が一の出来事に対して素早く的確に対応できるようにするためだ。危機的な状況においては考えている暇がない。 ……
――周木律『雪山の檻 ノアの方舟調査隊の殺人』(新潮社)
このまえ読んだミステリで、登山家でもある考古学者が語った言葉です。
似た話で、プロ野球のイチロー選手が、バッターボックスで常に同じ動作をするのは有名です。映像に映っていないところでも、いくつも本人だけの決まりごとがあるとも聞いています。
同じ心構えでのぞむこと、というのでしょうか。
ルーティンとよく言われます。
僕はイチロー選手の話を聞いたとき、「常に自分を同じ状態にたもつ」くらいの印象だけでした。他の言葉にするなら、ジンクス、験(げん)をかつぐ、でしょうか。
でも、「その状態ならどういう効果があるのか」までは考えなくて、上の文を読んだとき、ルーティンというのは、「反射に近いレベルで動ける」ことにつながるのだと気づきました。
反射に近いレベルで動ける ―― なわとびでは、体に宿ってほしい感覚ですね。
もちろん、「いつでも」できなきゃ意味がないわけで、ルーティンはただ形を作るだけでは完成しないものです。それだと、僕が大ざっぱに感じていたジンクス、験かつぎの段階でしかありません。
そう考えると、なわとびで言うルーティンは、すこし違って見えてきます。
「ある一連の技の組み合わせ」「連続技」をルーティンと呼ぶことがあります。
たしかに言葉だけでも通じますが、跳べただけではまだルーティンという言葉のみです。繰り返され、それこそ反射的に跳べる段階に達したとき、ルーティンはただの連続技だけではない、高みに踏み込むのかなと思いました。
これは、もっと単純化していくと、ルーティン、多回旋、前とび……と、基本的なところに行きつきます。できる人は早くにその流れ=ルーティン化ができるから、さらに安定するのかもしれません。
繰り返された決まりごとが、どんな状況でも再現できる「その人の領域」に行きついたとき、技は鮮やかに見えるのでしょう。
その人が、数えきれない苦労を重ねたにしても、人並みはずれたセンスですぐにそこに行きついたにしても、他の人が追いつけないのはまだルーティン化できていないから。ルーティン化の波に乗ったところで、ようやく同じ高さに立っている、と言えそうです。
繰り返すだけで技術としてすらつかみきれていない自分にとっては夢のような話ですが、繰り返さないかぎり、考え続けないかぎり、ルーティンは生まれません。