■ 手首、手首と言うけれど
今回は「手首のこと」。
「手首で回そう」は違います、という話が見られるようになってきました。
僕も、手首だけで回すとブレやすい話などを書いてみました。でも、それだけでは大ざっぱに思えます。
ダメと言うからには、理由 ―― いわば「ダメのメカニズム」のようなものがあるのではないか。そういう話です。
これについては、前回のドリルの話が、極端ですがいい例になっていると思います。
つまり、手元で回しすぎているから縄の中央まで力が伝わらない。
これが手首で回すときのダメなメカニズムだと思います。縄をとらえられないと言いかえてもいいでしょう。
「え? うまい人はほとんど手首で回してるように見えるけど」
たぶん、こう思う人が出てきます。僕も以前はそう思ってましたし、今でもそう見えるのはたしかです。でも、実際は手首だけで回しはじめるわけではありません。
最初は腕を使って縄を上げます。勢いがついたところで、腕の動きは小さくなります。だから、回しているときの腕はほとんど動いていないように見えるのです。その代わり、比較的動きが大きくなる力の行き先 ―― 手首周辺が動きとして目立ちやすい。
あくまで「上手な人は」ですが、手首で回しているように見えるのは、そういう理由だと思います。
それでもなぜ「手首で回そう」はなくならないのか。
単純に、歴史ができあがってしまったのが大きいでしょう。
368 どうして「手首とわき」は生まれたのか? で、ちょっとのアドバイスのはずが手首というわかりやすい部位がクローズアップされて「手首神話」が生まれたのではないかと書きました。
みんな言ってきたことなので、メカニズムはあまり考えられずにそういうアドバイスがひとり歩きしているのが現状だと思います。
手首がまったく使われない、なんてことはありません。それだけに、今まで言われてきた歴史があるのも重なって、本当に「手首で回す」はダメなの? という疑念がわく。僕もそうでした。
ただ、手首よりは腕全体の技術のほうが大切、と考えれば、言うほど手首で回すことは前面に出ないのかな、というのが今のところの自分の理解です。
言い方は悪いですが、なわとびを教えたい気持ちよりも、自分の言葉で役立つことを発信したいと考える人が、有名な言葉(=手首で回そう)だけ借りてネットにアップしている場合も多い世の中です。手首についての勢力図が変わらないあいだは、もうしばらくこの状況は続くことでしょう。
プロのかたがたは地道に発信しつづけているようなので、どこかでこういう形でクローズアップされることが、転換点になるのかもしれませんね。
今回のタイトルは、赤川次郎さんの短編小説のタイトルから借りています。
読んだのは20年近く前ですが、想像することで、目をそむけたくなる恐怖がわきあがる作品でした。
手首の問題には、想像が関わっているとも思います。手首だけで回せれば、すごそうだし、達人感がある。想像が、いろんな人にとっておさまりのいい手首の理想像を作ってしまうのかもしれません。