とびまるの「なわとびのこと」

なわとびのことを書いたり描いたりするブログ。

431 技の追究となわとびの本質

今回は「なわとびのこと」。

技のコツを考えていくと、実は基本的な技術に戻ることが多いです。

ブログで文章にしていると、よく思います。最近の技系の話でも、

・ASを足の下に叩きこむ → 大半の多回旋で同じ瞬間がある
・ジャンプリリース → 部分部分のコツが基本のリリースにある
・後ろSASOで縄を張る → 縄をとらえるのはどんな技でも大切

最後は基本に立ち返る展開ばかりでした。


具体的な話から、抽象的なイメージを見いだしているように思えます。

抽象的、つまり大ざっぱ。適当という意味にも聞こえますが、むしろ「あいまい」という意味で、どんな形にも変化する基本部分です。

たとえば「縄を張る」。

OでもCでもEBでも、どうすれば縄を張れるか考えます。TJの最後にも、トードからのO(しかも多回旋)で縄を張る場面が出てきます。どれもそれぞれの技で縄の張り方があって、具体的に「こうやれば縄を張れる」と気づきます。

でも、それらをすべて貫くように、「縄を張るという技術そのもの」があるのです。いくつか縄の張り方をわかったつもりでいて、実は大もとに技術そのものというさらなる「深み」があると気づく瞬間。

わかったつもりの技術は、基本と呼ばれる部分が技ごとに形を変えていただけだと知るのです。

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あいまいなイメージで描こうとしたら細胞みたいなクリーチャーになりそうだったのでこれくらいの絵で……。


これは逆に言えば、基本がわかれば、どんな技でも跳べるということです。

上の例なら、「縄を張るという技術そのもの」がわかれば、どんな技でも縄を張れる。個々の技で悩み考えながら、ようやくコツらしいものが見えたなんて書いている自分からすれば、とんでもないことですね。

上で具体から抽象と書きましたが、どんな形にも変化するあいまいな「基本」をつかむとか、それこそどんなスゴ技だという話です。基本が一番難しいというのもうなずけます。

でも、そこに気づくかどうかで技術の「飲み込み」は変わってきますし、気づいたら、常に意識せざるを得ない1つの壁になるのは確かでしょう。

難しそうでしょうか? なんとかなるとは思います。たとえば、縄を張るにしても、最近自分は(特に背面系で)左腕が入りきっていないのを直してみたら、縄の張りが出たのを感じました。少なくとも背面系の大半がこれで変わります。体のクセの話に見えつつ、背面系の大半を貫く基本でもあるのが重要に思えます。


なわとびを言葉にすることにも似た部分があります。

ブログその他、僕がなわとびを言葉にするとき、うまく言えた(書けた)と思えるときは少ないです。それでも、何度か「わかりやすい」と言ってもらえました。今の学校で一緒になわとびクラブをやっている先生も言ってくれました。

僕が言葉にしたなわとびは、ある1人の具体的な言葉でしかありません。でも、おそらく多くの人は言葉にされたなわとびなんて、ふれる機会は少ないと思います。よく聞くような言葉ばかりで、それ以上の説明なんて聞いたことがない。だから、僕本人に自信がなくても、どこか貴重な印象を持ってもらえます。

それは、やはりあいまいな「なわとびを言葉にすることそのもの」の価値を感じてくれたのと同じで、なわとびを言葉にすることの可能性もあるのかな、と思えます。