とびまるの「なわとびのこと」

なわとびのことを書いたり描いたりするブログ。

323 限界を知らず、限界を決めず

今回は「目的のこと」。

縄のまっちゃんこと粕尾将一さんのこの話を読みました。

作家の森博嗣さんのエッセイを思い出しました。

「I Say Essay Everyday」シリーズから15年くらい、この人のエッセイを読んでますが、「どうしたら作家になれますか?」と質問を受けた経験について何度か書かれています。

そのくだりが、上のまっちゃんの話とよく似ています。話に付き合うと、実は何も書いたことがない。まず書いてみたらどうかと投げかけたら時間がないと言われる。

夢はあるけど動かない。漠然とした夢というのは、そういうものなのかもしれません。

自分のなわとびはどうかな、と思う前に、学校の子どもの姿が浮かびます。


不思議と、上のように口だけ夢を語る感じの子には出会いません。

休み時間でも跳んでる子たちって、ただ遊んでいるようで実はやる気があります。

他のことをしてたっていいじゃないですか。でも、この時期だけでも休み時間はなわとび台の近くに集まって、跳びまくってます。きっと、学校の子はなわとびの腕前とやる気でこんなふうに分けられます。

f:id:tobimaru-jdr:20180318223711j:plain

上の2つの枠の中にいる子が、休み時間でも跳びまくっている子たちです。

僕になわとびを聞きに来る子は、ほぼ上の枠の子です。でも、漠然とした質問をする子はいません。なぜでしょう。

子どもなりに目的があって聞きに来るからだと思います。小学校のなわとびは技が明示されているので、とりあえず「この技が跳びたい!」「もっと跳びたい!」だけで目的は十分なんですね。

いい悪いは別として、いつも他の子と比べてしまう環境にある子どもたちにとって、難しい技、回数を求めるために何かを教えてもらうのは、当たり前のことなのです。

子どもはまだ、自分に限界があるなんて思ってません。

教えてもらえば何かが伸びると思ってます。そのイメージ自体は漠然としていても、自分の上達を信じていられるから挑戦できるのでしょう。それが、まっちゃんの話にあった、自分に限界を作りたい人との大きな違いです。


自分のなわとびはどうかな、と上で書きました。

子どもに比べれば、自分の未知の可能性なんてはるかにせまいです。だから行きづまることも多いし、それが重なれば限界も感じてしまいます。

でも、なぜかふとしたタイミングで限界がすこしだけ広がります。その場で微調整した結果だったり、ブログに書いてみて試した結果だったり……。

始めのころ目的にしていた、なわとびを通じた活動は、だいぶなくなりました。そのときそのときでやってみたいと思った技、動きが、今の自分の目的で、それがかろうじて限界をすこしだけ広げてくれています。