今回は「少数派のこと」。
父の日、名古屋城、LBGTトイレ表示、2分の1成人式……。
マイノリティ、少数派で浮かんだニュースです。
このあいだ、父親のいない子の父の日について、Yahoo!の記事がありました。印象的だったのはコメント欄で、「少数派のことだけ考えてなんかいられない」という声がけっこうあって、驚きでした。
名古屋城のエレベーター問題は、もっと激しくて、「障害者が権利を主張しすぎ」コメントが7~8割あった気がします。
少数派がらみのいろんな反応を見ると、「少数派に理解はするけど意見の全部は引き取れない」「声が大きいことは許さない」が多い感じです。
なわとびでのマイノリティって、どんな人でしょう。
そんなことを考えていたら、そういえば自分は、言葉にはしていないものの、自分をマイノリティだと思っていたのかな、と思いました。
腕前という意味で。
いまだにリリースが普通にキャッチできません。多くの人が練習するうちに自然にできていく技だと思ってるんですが、6年くらい回し方をいろいろ試しても、グリップもコツもつかみきれません。
練習や考察が足りないのか……。とりあえず、「人並み」に届きません。届くことがあっても、実にゆっくり。このへんの、人と同じことができない孤独感が「マイノリティ」っぽかったのかな、と思うのです。
あまり自分から主張するものじゃないので、どちらかというと「自称マイノリティ」ですが……。
できなくてすねる子どもをたまに見ると、本当は自分だってそうなんだと言いたくなることもありました。
でも、なかなかそこまでは手を差し伸べられないのも確かです。
だれだって使える時間に制限があります。できない人にどこまでも目をかけることはできません。その他のできている人に、もっとプラスをあげる時間だって、当然欲しいのです。
技術のセンスや、気の持ちようで、必ず差は生まれます。
自分の「できない」が、どれほど人を納得させられる「できない」なのかわかりません。整体師に体のゆがみを証明してもらったとしても、ムリなく縄を回せる方法もまたあるかもしれませんし、体の動きを把握しきれないことが多くても、どこかでわかってしまえば過去の話になるかもしれません。
それでもなんともならなくて、初めて「マイノリティ」なのだと思います。
1か0かで決めつけられる話でもありませんが、そこまでなんともならずになわとびしている人がいたら、自分なんかよりもっと苦しいんだろうな、とは思います。
僕の場合、上手な人とつながるチャンスがありました。それがうまくなるチャンスになる可能性もありました。でも、そこまでは踏み出せませんでした。「自称マイノリティ」な自分を作ったのは、ほかならぬ自分自身だったのかもしれません。
マイノリティ関係のニュースを読んだあと、こんなことをあれこれ思いました。
実際は、ジャンプや縄回しが多少かみあってきたり、SOOTSや後ろSOOトードが初めて跳べたりと、そんなに後ろ向きな状態ではありません。思い返せばそうだったのかな、というくらいの話です。
「できない自分」と「できないだれか」がごっちゃになってる感じもしますが、このブログでは大切なキーワードだったと思います。
できない自分がヒントを見つけて、同じようにできないだれかの助けになれれば。
技術系の話では、この気持ちが残っていることが多いです。