とびまるの「なわとびのこと」

なわとびのことを書いたり描いたりするブログ。

424 夏祭り・残影

今回は「演技のこと」。

偶然、去年までいた小学校の保護者に会いました。

毎年、なわとび演技を跳んでいた夏祭りの運営にも関わっていたかたです。ちょうど今は準備の時期。それもあってか、「今年はもう、跳ぶのを見られないんですね」と言われました。

さすがに転勤してしまったので……とかなんとか答えて、短いあいさつで別れたあと、ふと思いました。

新しい曲で、演技はできていた。


このあいだすこしふれたように、新しい演技を作りました。

だれかに見せる予定はない、「ひとまずの形」としての演技です。でも、実は、人前で見せる可能性を1つだけ考えていました。

前の学校の夏祭りです。もし、なわとびだけでも、と呼ばれたら……という小さな期待も、新しい演技を作ったきっかけでした。

――が、そんなことはすっかり頭から飛んでいました。

見方を変えれば、こんな偶然のチャンスをのがす手はありませんでした。ほとんどストレートに話題に出たのです。「じゃあ、サプライズで参加していいですか?」、そんなふうに言えるタイミングでした。それでも、新演技のことを思い出しさえしなかったのは、ゲスト参加を本気で望んではいなかったからでしょう。


最近、満足感や踏み出す気持ちについて書きました。

単縄に満足してしまったから、見せ場を求めることもしなかったのか?

今回については違います。ずっと苦しんできたこと ―― 成功する自信がないことが、一番の理由です。

すこしずつコツをつかんだ的なことを書いていても、やっぱり縄はうまく回りません。そんな、一度もノーミスを達成したことがない自分の腕で、人前で演技なんてアピールはできません。

そういう気持ちが、自然とアピールを押さえこんでいたのだろうと思います。


ただ、前回使った「検証」という言葉が、違う意味で頭をよぎりました。

演技がどう評価されたか、検証したことがあるのか?

見てくれた人の感想を確かめたことがあるのか、という意味です。ほとんど確かめたことはありませんでした。ほめてもらえたことはありますが、「これからも僕の演技、見てみたいですか?」なんて聞いたことはありません。

書いていて恥ずかしいくらい露骨な求めかたですが、そういうことをなんらかの形で確かめるのが、人前で演技を続けるための「検証」だと思うのです。

僕は、単縄に自信をなくして、マイナス面のほうが大きくなって、前に出るのをやめてしまいました。「また見せてください」とかそういう言葉があったら、違う流れもあったのかもしれません。これも書いていて恥ずかしいのでダメ出ししておくと、そういう言葉を引き出せなかったことが、自分の演技の評価でもあったのだと思います。

そういう意味では、これからも見てみたいな、見せてほしいなと思ったら、一声かけてあげるのが、自分が見る側(評価する側)に立ったときに、ひそかに求められていることなのかもしれませんね。

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自分語りが続いてすみません。次は普通に(?)技系の話にします。