今回は「単縄のこと」。
単縄が好きでも、「ダサい」と思える瞬間がたまにあります。
ムリして、何をやりたいのかわからないとき。
さらには、そこで引っかかって自滅したとき。
その姿を見る人の、単縄への理解、単縄のイメージはいろいろですが、その瞬間を、どう見られたのか。過去に人前で演技したときに、何度もそういう瞬間にぶち当たった身としては、どれだけ自分ががんばっていようと、ダサさからのがれらないシーンもあるのではないかと思うのです。
なんでこんな話を持ってきたかというと、公園でそれっぽい声を聞いたからです。
――あんまりカッコよくない……。
演技を通した直後、というタイミングで、広場で遊んでいた子どもの1人がそう言ったのが、遠くからストレートに聞こえました。
そのときは、音楽が何かの衝撃で止まる、イヤホンが着地の振動ではずれる、と2回も演技が中断して、半端に入った小休止で疲れも増して、ラストはけっこうムリな跳び方をした1回でした。
なので、子どもにそう評価されても、実は僕に向けられた言葉じゃなかったとしても、どのみちカッコよくない演技だったと自分でも思います。
これが、見る人を圧倒できるような演技だったら、こんなことは思わなかったでしょう。「ダサい」とは、すなわち実力不足なのです。
好きな人の集まり ―― 大会とか練習とかなら、あまりそういうイメージは生まれません。理解しあえる人の集まりでもあるからです。でも、一般のイベント、近所での練習になってくると、まわりは楽しいと思ってくれる人ばかりではありません。
以前、お笑いコンビの爆笑問題が村上春樹作品を「ファッション」と言いました。
僕は村上春樹さんの作品を読んだことがないのですが、ネットもなかったころから有名だったのとは別に、読者の様子もネットその他で有名になったのを知っています。そこである日話題になった、「ファッション」発言。
僕は、ファッションという言葉がすごいな、と今でも思ってます。
実際どれだけの人が「ファッションとして村上春樹を読んでいる」のかわかりませんが、向き合い方がきれいに一言になっていて、賛否あった話題よりも印象に残りました。
僕にとって、単縄がファッションになっている部分はあります。
自由に跳びたいだけならともかく、人目を意識して単縄を見せたい気持ちがある以上、どこかに「ファッションとしての単縄」はひそんでいます。そして、ファッションとして飾っている以上、失敗すれば「ダサい」のです。
これは、ブランド物で飾ったからといって、誰もが似合うわけではないのと同じです。飾ろうとしているのが見え見えだと、見ている側がしらける道理ですね。まして、飾る(単縄で言えば跳んでみせる)のに失敗したときには、もう……。
ただ、ファッションは選択でもあるわけで、有名ブランドじゃなくたって十分似合います。そのへんも、単縄でもまた同じでしょう。
ムリしてSEBOCLとか跳ぶより、SOOOをビシッとキメたほうが評価が高い場面も多いと思います。大会では違うかもしれませんが、ジャッジにそういう側面はあってほしいですね。
単縄はファッションですか? という今回のタイトル、答えるなら、ファッションでいいんです、と言いたいです。ただし、どう見られるかを気にしたうえで……。
やっぱり、ダサいと思われたくない気持ちはあって、それがうまくなろうとする向き合い方にもつながります。ジャンプリリースに挑戦しているとき、何回目かにとりあえず空中で取れたときに拍手してくれた中高生くらいの子。上で書いた子どもが別の日に左右リリースを見て、「あれ、あれ!」と他の子を呼び寄せたとき。
認めてもらえるときもあるのかな、と思います。