■ うぬぼれた理想を一度は砕いて
今回は「単縄のこと」。
1年前のブログ「~~」などを振り返りませんか?
たまにはてなブログから届くメール …… なのですが、このブログは、書く予定リストがうまっていて、振り返りで話を作ることはあまりありません。
ただ、今回は1年前に書いた話の振り返りです。
448 単縄はファッションですか?
449 トードができるからなんなの?
この2つの話、書きたかったことをようやく書けたと思っています。
単縄への向き合いかた ―― 特に、理想と現実について、まとめてしゃべりきれたような充足感がありました。
それまでにも似たようなことを書いていたと思います。違うのは、上の2つの話が、別のテーマにちりばめただけの一文ではなく、それまで自分の中でもやついていたのをくぐり抜けて書けたような話だったことです。
自分の中でもやついていたというより、直視しないから先が見えていなかったのだと思います。
何を直視せずに、むしろ、逃げていたのか。
「単縄をやってる自分は特別だぞ!」といううぬぼれだったと思います。
珍しいことをやってみせれば、当然人は賞賛してくれる。
珍しいことを教えてみせれば、当然人は熱中してくれる。
単純すぎますが、よほどの落ち着いた人でないかぎり、きっとどこかに持っている理想だと思います。僕も持っていました。でも、恥ずかしくて直視できませんでした。そのくせ、こっそりよりどころにしていた気がします。
夏ごろに読んだ本のこの会話で、鳥肌のように浮きあがった本音でもありました。(すみませんが、すこし過激な単語が出てきます)
「危ないとは?」
「あいつらは怖がられることに慣れています。恐怖は、やくざにとって商売道具なんです。だからそれを感じない相手に対してはムキになる。大怪我をさせたり、場合によっては殺してしまうかもしれない」
「怖がられる」を「尊敬される」とか「共感される」に置き換えると、いくらでも同じような話が転がっているでしょう。
理想が崩れたときの現実。
挫折もわだかまりも経験しました。でも、そもそも、その理想にうぬぼれがあったことに、どれくらい自分は気づいていたのか。気づいていながら、見て見ぬふりをしていただけではなかったのか。
1年前の2つの話は、どちらも子どもの言葉・雰囲気が引き金になっています。子どもだからこそのストレートな表現は、まさに「直視」でした。一撃となって、自分の理想にひびを入れ、あるいは砕いたのかもしれません。
それでも、この1年、今まで以上に単縄の世界から離れつつ、単縄に使える感覚を手にしていった時間は幸せでした。理想に追いつかなかった現実が、まだ前へ進んでいる実感があります。
散った破片は、ただの残骸でしょうか。
細かく小さくなったり、断面が不規則に反射したりする中に、純粋に夢として追っていたころの姿を、まだ見つけられるのではないかと思います。