とびまるの「なわとびのこと」

なわとびのことを書いたり描いたりするブログ。

523 理想は不変

今回は「フリースタイルのこと」。

最初は「理想の異変」というタイトルでした。

「異変」モードから書くと、前回に続いて、1年前と言えばでオリンピックの話です。

450 単縄はオリンピックの夢を見るか?

問いかけ系3連みたいな流れで書きました。もし単縄がオリンピック競技になったとき、回数で競う種目はともかく、フリースタイルは見てわかる種目なんだろうか …… みたいな話でした。

今でも疑問は残ったままです。


――すごいけど、でもね。

以前、単縄のことを知らない人にいくつか動画を見てもらったとき、そんな感じの反応がありました。声まで出して驚いているのに、でもね …… という微妙に白けた雰囲気。

最近のフリーを見たときの、すごいのになぜか気持ちが食いついていかない違和感は、人に見せたときのあの距離感に似ていました。

思えば、競技ルールの改正で片手制限がレベル1に下がったころに、始まりがあった気がします。あの改正は、難易度の基準として、すごくわかりやすい話でした。一方で、点数をねらっていくには、両手制限技を増やす必要が生まれたのではないかと思います。

そのせいか、フリースタイルが目に見えて苦しくなったように見えました。

EBトード、CL、AS、このへんが跳べないと競技フリースタイルにならないような印象があります。2019年の全日本だと、同じ技の繰り返しにあまり制限がなかったので(?)両手制限技がこれでもかと入った動画が多かったように思えます。(ひさしぶりにルールを見たら、半年も前に変更が入っていたみたいですが……)

自分がそのフォームに窮屈な実感を持っているせいもあってか、「フリースタイルって、こんなに苦しそうな動きだったっけ」と感じました。


異変はもうそこまで来ていました。

自分には、あそこまでは難しいなあ …… と1歩2歩あとずさりしたところで、僕は「わからない」側に近づいてしまったのだと思います。

――すごいけど、でもね。

あの距離感にもまた、近いものがありました。たぶん、ああいう反応は、すごさと興味が別物だから生まれるのでしょう。単縄への興味にまでは広がらない。それは人それぞれで仕方ありません。

じゃあ、自分の場合はどんな距離なのか? スゴ技は跳べなくても気持ちは盛り上がって食いついていたフリースタイルに、苦しさを見つけてあとずさりしてしまった。その距離ではなかったか。

フリースタイルにあこがれて単縄を始めた自分が、そんなことを考えた。これが理想の「異変」でした。


異変、異変と書き続けるとあまりイメージが良くないので、最後は戻します。

競技に参加することもなく単縄を続けてきた僕のような人のために、フリースタイルはあるわけではありません。両手制限系だって、その人にとって難しいならムリして跳ばなくたっていいのです(勝負からは道をはずれるかもしれませんが)。

今年が、ムリのない範囲で体の使い方などに気づいて、跳べる・回せる感覚を手に入れた年だったのもまた事実。自分の腕前が追いつけない落差はあっても、自分なりに自由に跳びたい気持ちは昔も今も同じ。

つまり「不変」です。

苦しげに見えた一方で、そのルールに技と演技を合わせて真正面から大会に「跳び」こんでいく姿が、届かない星のように光って見えたのも確かです。仮にオリンピックでフリースタイル種目が競われても、高いレベルの演技ならきっと……。

わかる・わからないを跳びこえて、見る側に飛びこんでいくものがあると思うのです。

おそらく、それは見る側がしまいこんだつもりでまだ持っている理想。すごいけどでもね、と言いつつ、本当は無邪気に、自分もこんなすごいことをしてみたかったんだ! と叫びたい気持ちに呼びかけられれば、フリースタイルがどんな形でも感情を揺さぶるんだろうな、と思います。

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