とびまるの「なわとびのこと」

なわとびのことを書いたり描いたりするブログ。

594 引用症候群

■ 引用を記念碑だけの文字にせず

今回は「引用のこと」。

この2~3か月、よく引用を散りばめています。

小説やマンガの一文やせりふを、「ここで」というタイミングで披露。ほぼ雰囲気づくりです。研究論文みたいに、引用しないとその後の論述が成立しないとか、そういう話ではありません。

触発されたからこの話が生まれた。
雰囲気を表す背景のような言葉として。

こんな感じで使うようになりました。自分が印象を受けた言葉を捧(ささ)げるように置くのは、「好きを形に」の1つと言えるでしょう。


そんなふうに書き続けているうちに、ある短編小説を読みました。

芸大に通う主人公たちの会話 ―― を例によって引用。

「あとさ、最後に『悪しき造物主』って小説を主人公が台詞で引用するじゃん?
 (中略)
 主人公がそういうチャラチャラインテリな感じなら判るけど、そうじゃないじゃん基本的に。真面目なキャラなんだし、あそこは真心からのぐっとくる台詞で締めるべきだったんじゃないの?って普通に思ったよ」

 ―― 舞城王太郎「ほにゃららサラダ」(『私はあなたの瞳の林檎』所収)(講談社


これを読むと、Twitterリツイートの「軽さ」が浮かびます。どこかで Twitter が「名言製造機」になっていると聞いたことがあるんですが、無数のツイートからたまにすくいあげられる名言が、簡単な操作で誰も彼もに使われてしまう軽さ……。

実はこの軽さの話も何かのコメント欄で読んだもので、わかる部分もあれば、Twitter のようなSNSだと、そうやってどんどん広まる効果も別にありそう。ただ、 Twitter を始めたときに、それまであまり見てなかった Twitter をすこし眺めてみると、たしかにただ載せられただけの「他人の言葉」が多いとは思いました。これは、つながり・広がりなのか、それとも名言の単なる消費なのか……。


そんなことを感じるのは、自分の引用の使いかたとズレがあるからでしょう。

上の引用で話している学生は、要するに、「ラストなら主人公本人の言葉で語らせろよ」と言っています。僕も引用するときの締めはそこで、感じたことを自分の言葉に収めて、初めて引用が生きると思っています。(Twitter だと文字数制限もあるし、載せただけで「自分もそう思います」と言っているのに等しいので、長く書けるブログと比べるのは、それこそズレているかもしれませんが)

なわとび関係のサイトを見る機会が減って、なわとび話を引用することも少なくなりました。それでも、なわとび話を引用していたころ、跳びかたの理解が深まったとか、自分にはこういう発見もあったとか、やっぱり最後は自分の言葉でその引用を受け止めて、その話の特別枠として掲(かか)げていたと思います。

それは今も同じで、ブログとしてなわとびをメインにしつつも、「見せかた」がすこし変わってきただけだと思っています。自分の語りたいことを、なわとびに結びつけながら、引用するのも楽しいかな …… という感じ。

イラスト:置かれた縄に、上記の「僕も引用するときの締めはそこで……」の一文が書かれている。グリップ2本はすこし反射の入った文字で、「BLOCK」と「QUOTE」。全体が引用符に囲われて、下に今回のタイトル「594 引用症候群」が書かれている。

縄に言葉を託すような

引用を「文字というイラスト」で使っていいのか自信がなかったので、セルフ引用で……。