■ 光差す終わりに祝福を
今回は「終わりのこと」。
先月、足のつめがはがれました。
10月に傷めた足先の通院はもう済んでました。いつものように公園で練習して家に帰ってから、なんだか指の先がもぞもぞするなと思ったら、保護で巻いていたガーゼの下で、子どもの歯みたいにつめがゆるんでました……。
すこしずつはがれていたようです。おかげで痛みはありませんでした。見ると、新しいつめがすこしだけ顔を出していて、もうすぐ1cmになります。まるで、指の先に赤ちゃんがいるみたいです。
586 指のこえ でもすこしふれましたが、当時、跳べなくなる自分を想像しました。足の指がどうなるかわからない状況は、それなりに不安です。何度も痛めた腰も、ずっと不安の種です。そういうプレッシャーの陰には、いつも、「いつまでなわとびしていられるんだろう?」という気持ちが息をつめています。
あるゲームがリメイクされたのを知りました。
『アクトレイザー』という、スーパーファミコン初期のアクションゲームです。当時、続編の『2』までプレイしました。『2』は海外向けだったそうで、クリエイションモードがなくなって、筋骨隆々とした神さまが戦うアクションモードに特化していて、日本での評判はあまりよくなかったと聞いています。
ケガに合わせて、『2』で思いだしたシーンがあります。終盤、最後の戦いに降り立った敵地で、居城の残骸(ざんがい)とともに崩れ落ちていた天使たち。その1人が、主人公(神さま)に語りかけてきます。
神さま・・・
人は 死ぬと ながい年月をへて
あらたな いのちに 生まれかわります。では われわれが いきをひきとると
どこへ いくのでしょう。神さまと であったころは いつも
そのことを かんがえていました・・・
数年前に、プレイ動画でひさしぶりにこのシーンを見たとき、一時停止した覚えがあります。なんとなく永遠のイメージがあるはずの、天使の死と行く末。そのころ、なわとびで自分の腕前に限界を感じていたこともあって、不意に、なわとびする自分の姿が「薄く」なるような想像をしました。自信のなさが、なわとびの終わりをイメージしてしまったのです。
今考えると、わりと頭(ず)が高い想像でした。
だって、天使ですよ。神の従者。その最期と自分のなわとびのイメージを重ねるとか、そこまで自分のなわとびは神々しいものではないだろう? と。でも、それでも――。
それでもやはり、自分が好きになったものは、自分の中では「光」でした。
神とあがめるレベルでなくても、天使のような幸せを感じるもの。それが消えてしまったら、好きだった気持ちはどこへ行ってしまうのか? それとも、先に好きという気持ちが消えるから、天使は飛び去っていくのか……。
あれから数年がたって、終わりがギブアップでなく、いったんのゴール、満足だと思えるようになって、僕のなわとびは腰を落ちつけました。まだ跳べる。跳ばなくても書けるときもある ―― 技術もブログも、そしてなわとびが好きな気持ちも、過去に寄りそって優しくなでるように続けていられます。
天使のせりふは、こう続きます。
でも いまはもう わかっているつもりです。
この世から きえることは おそろしくありません・・・
僕はいったん、なわとびに満足できました。最後の戦地で、あの天使にもどこかで満たされたものがあったのかな、と今は思えます。あのゲームのエンディング、シンプルながら、映画のようなラストシーンはだれを称(たた)えていたのでしょう。だれであれ、その姿と光景に思わず泣きだしてしまったのを覚えています。忘れられない思い出です。
そんなシーンをオマージュしながら、今回はこの1枚で終わります。