とびまるの「なわとびのこと」

なわとびのことを書いたり描いたりするブログ。

601 オリンピックはなわとびの縄を見るか?

今回は「オリンピックのこと」。

以前、似たタイトルで書いた話があります。

フリースタイル競技は観客が動きを追いきれなくて、オリンピック競技として採用するときにネックになるのでは …… という話。ここで、参考で動画を1つ。


2018年の世界大会で総合優勝したかたの最近のフリーです。レベル6~8あたりの技をつぎこんで、ほとんどの技を制しているすごさ。 ―― けれど、どこまで一般の観客に「わかる」ものなんでしょうか。


最近、焦点になるのは、動きではなく、「縄」かもしれないと思いました。

山極 遊びでは、ターンテイキングと言って、いろんな役割を交代して演じるのが楽しいわけです。ただ、ゴリラやチンパンジーは役割が身体的感覚から離れられないから、自分と相手しか選択肢がない。だからおままごとはできないと思います。

  ―― 山極寿一、小川洋子『ゴリラの森、言葉の海』(新潮社)


この対談集でゴリラの想像力の話を読んで、おままごと(役割の想像)ができないゴリラと、縄の動きとその連続(目で追えないものの想像)ができない観客には、どこか通じるものがある気がしました。

身体的な感覚は想像できるけれど、目で追えないものは想像が難しい。ここに「わかる」の差が出てくるのかなと。同じフリースタイル競技のあるフィギュアスケートでも、ルッツとかトーループとか、ぱっと見よくわかりません。ただ、動いているのは人間の体なので、速度にも限度があって、まだ目で追って、自分の身体的な感覚と共有することで、想像ができるのです。

単縄の複雑なフォームも、よく見ればなんとかわかります。そして、どこかで自分の体にも想像がつく。一方、縄は、1回のジャンプで3重、4重と回すのを、複雑なフォームの中でやっているから、特に「何重とびなのか」目で追えない。身体的感覚では届かないもの。自分の中で、わかる・わからないの差はこのあたりにあるように思えたのです。

すごいの内側が見えなくなっていく感覚には、こんな事情があるのかもしれません。


ただ、単縄の大会はそれで成立しています。

そこに「わかる」があるということです。自分で跳ぶ経験から想像ができるとか、ルールを知ろうとするから想像できるとか、「わかる」に近づく方法がある。となると、一般の人にも伝わりそうな方法がありそう。

たとえばAI。 406 人とAIの2in1 でAIの技判定の可能性をすこし書きました。縄は見えないし、動きだって想像できないけど、技や難易度が瞬時に明示されればそれでよしにならないか? それこそ、わかりやすく3Dモデルで連動表示だってできるでしょう。


あとはどこまでオリンピックにこだわるかですね。

アスリートにしてみれば、五輪はだれかに提供してもらっているもの。年末に東京オリンピックを振り返った記事で、

「スポーツを殺す五輪はいらない」(スポーツジャーナリスト・谷口源太郎さん)

  ―― 中日新聞 2021.12.29 特報「五輪の政治利用 再び」


という警句を見ました。どこまで社会にオリンピックが必要とされているのか。一方で、元旦の新聞にはスポーツの可視化(社会的価値を金銭=数字として評価する)について書かれていました。

技を可視化するように、五輪に臨(のぞ)むことも数字として可視化して、考える日が来るのかな。オリンピックを全然見なかった人なので、「想像」できる輪も小さいものですが……。

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2022/01/11

アベシさん企画のなわとび博覧会のチラシにイラストを使っていただけました。ありがとうございます。ご厚意でイラスト展示も予定中です。