■ 大きなジャンプに感じる危うさ
今回は「大ジャンプのこと」。
去年の秋くらいに読んでいたミステリで印象的だった部分。
美しかった、としか記しようがない。
あれほど罪深く、しかも心奪われる存在を見るのは初めてだった。どう表現すればいいだろう。透き通るような羽毛、瑞々しい嘴(くちばし)、無垢な両眼、耳をくすぐる鳴き声――駄目だ、どうやっても嘘臭くなってしまう。
エルヤを――硝子鳥を『美しい』と認識してしまった時点で、ぼくも同罪なのだ。
―― 市川憂人『グラスバードは還らない』(東京創元社)
この語り手は何を目にしたのか、こんな言葉が出るような何が存在するのか。硝子鳥(グラスバード)という謎が、どこかうすら寒い魅力をもって、いよいよ現れたシーンでした。
―― なわとびで、こんなイメージが生まれることがあるんだろうか。
段落が切れたとき、ページから目を離してふと思いました。モノローグに「何かへの視点」を感じると、ときどき考えることです。ただ、それにしても、「罪」はないだろうと最初は思ったのですが――。
わりとすぐに浮かびました。
しゃがみこむくらいの大きなジャンプ。そのあこがれと危うさ。
だれだって、自分の限界の高さで跳んで、回せるかぎり何重とびでも跳んでみたい。実際に6重とびや7重とびを跳んでいる人のそういう姿を見てあこがれて、挑戦する人も多いでしょう。そんなとき、大ジャンプにはきっと、理想や偶像に近い美しさが映っています。
そして、着地もまた同じフォームで落下します。けっこうな衝撃とともに。
過去にこれでケガをしたから、というのもありますが、僕にはここに怖さがあります。僕だけじゃありません。なわとびを繰り返すうちにケガをしたと自分で書かれている人を何人も見ました。思いきり技に挑戦しようとすれば、ケガという危険と隣りあわせなのがスポーツです。ここに、大ジャンプの美しさと、そこに引き寄せてしまう罪を感じるのです。
自分だって、4重とびに挑戦するとき、しゃがみぎみです。
技術的なことを言えば、しゃがみ姿勢は2段目の加速みたいなもので、跳びあがってから脚を曲げて「上げる」ことで、上半身の持ちあげにつなげる効果を感じます(正しいかはわかりませんが)。
ただ、その最後に大きな着地という怖さがあります。だから、たとえば子どものような相手のある話になると、どうしてもためらいが生まれる。そこをきちんと覚悟しないままに伝えるのは、やはり、どこかに罪めいたものを感じるのです。
自分の意志で高く跳ぼうとしている人にやめろなんて言えません。堂々と言うなら、たとえば「OO歳相当の体の子どもには骨格の成長を妨(さまた)げるほどの負担がある」ことを信頼できるデータとともに示すくらいのことができないとダメでしょう。
このテーマで忘れられないのが次の動画。
高さを感じられる連続技で舞いに舞う姿が気持ちいい演技と、その最後。何を感じるでしょうか。
「勇気一つを友にして」という曲があります。
子どものころは、イカロスの勇気を称(たた)える祈りに似た雰囲気が素直に好きでした。元の神話、そして勇気と無謀は違うと知ったとき、あの曲のイメージはすこし変わりました。変わったというより、勇気と無謀のあいだでイメージが揺れるような気持ちがありました。
挑むか、傷むか。大ジャンプに踏みこむ意志には、似たものを感じます。
「随分と前衛的な牢獄だね」イアンが楽しげに呟いた。
『グラスバードは還らない』より。むしろ、古くから挑戦者が抱えてきた迷いの檻(おり)ですが、ちょっと好きなせりふだったので……。
硝子の鳥は作中のように儚(はかな)く、しかし、救われる道筋さえ間違わなければ、きらびやかに飛びたつ奇跡だと思います。大きくジャンプするとき、同じように跳びたてる姿でありたいですね。
おまけ
なわとび博、配信も行われるそうです。楽しみですね。(下は報告ページ)