■ なわとびが文化騒音になるとき
今回は「音のこと」。
なわとびはうるさい。
激しい技に挑むにつれ、浮き出てくる負の側面だと思います。
「単縄」と呼ばれるレベルでなくても、学校で、ソニックブームでも飛んでくるんじゃないかと思うような音を立てて後ろはやぶさをやる子もいます。「すごいねー」と言いつつ、耳に届いたとき、わずかに身構えた自分がいる。身構えたからこそ、そちらに視線が行ったのです。一歩違えば「騒音」でしょう。
サウンドスケープという言葉を知ったのは、新聞のコラムでした。
(注:会員登録がないと途中まで。言葉が出るのは終盤です)
その音が風景の中でどう関わっているのか …… みたいな考えかたです。記事だと、今では町内放送も流す時刻に配慮が必要になったとか、盆踊りが中止になるケースとか、「文化騒音」の流れから話に出てきた言葉でした。
なわとびの音が風景として「聴こえる」状況ってどんなかな、と連想したとき、うるささのほうが先をついたのは、そんな文脈の記事だったからでしょう。
実際、なわとびの音がどう思われているのか実感したのは、いろんな技を練習しはじめた初期のころです。
今でも覚えてます。公園でEK(横に360度回転しながら一度に[後ろ → 前]と縄を通す多回旋技)を練習していたら、近くの民家の引き戸が開いて、住んでる人がこちらを凝視してきました。何ごとかと思ったんですが、それはあちらのせりふで、うまく跳べずにドスンドスン着地していたのを何ごとかと思って出てこられたのでしょう。
なわとびとわかったのか去られましたが、激しい音が違和感を生みだしている可能性にはっきり気づいたできごとでした。
他にも、 399 なわとびに身をすくめる人たち のように「音がやべえ」と言われたり、室内で友だちと練習していたときに壁の向こうから「うるせー!(笑)」と冗談めかした声が飛んできたり……。
これって、どんな「風景」でしょうか。
同じ公園ではバスケをしている人も多いんですが、ボールのバウンドする音やゴールに当たる音はそんなに気になりません。ただ、やたら奇声をあげる中学生とか、10m以上離れてるのに聞こえてくるぐらいひとりごとを口に出す人がいて、自然に耳に流れていたはずの風景に乱れた線が入るな、って感じることもあります。
なわとびの音も、ときに似たものになります。
それは、自然な音から、一線を超えた音になったときでしょう。風景を乱す側、迷惑をかける側として視線を浴びる瞬間。そんな気まずさをたまににじませながら跳んでます。
施設なんかだと、床のキズ問題とは別に、音問題(特に着地?)も共有空間としての風景にそぐわないものとして受け止められる場合もあります。過去に利用相談をしていたころ、公民館系はその傾向が強いように思いました。
なわとびは、音の風景として、場所を選ぶ運動でもあるんでしょうね。
小気味よく跳んでれば、むしろさわやかな風景の一部として受けいれられるかもしれません。上手な人のなわとびは、背景できらりと光る謎のモブです。となると、うまくなることが、風景に溶けこむパスポートみたいなものでしょうか。
つるまいかださんのマンガ『メダリスト』だったかな。 「うるさい」「え? 何も言ってませんよ」「ポーズがうるさい」「……」 みたいなやりとりがあって、なわとびも上手でないと、悪目立ちなだけのうるさい風景になっちゃうのかな、と思った記憶があります。そこをなんとかするために跳ぶという、風景のパラドックス……。
珈琲さんのマンガ『ワンダンス』第37話より、部長さんのシーンを借りて。なんだか、このシーンが浮かんだのです。