とびまるの「なわとびのこと」

なわとびのことを書いたり描いたりするブログ。

627 だれもがだれかの魔法つかい(1)

今回は「魔法のこと」。

昨夏、なわとびに魔法のイメージを感じたきっかけ。

魔法つかいプリキュア!』、全部見ました。もう、なんというか、期待そのままの温かい作品でした。日常回が多くてちょっと …… という評判もちらっと聞いていたんですが、そういう退屈さはほとんど感じませんでした。日常の中で、魔法と願いが入れかわり立ちかわり姿を変えるのがずっと楽しかった。魔法の楽しさ、好きな人とずっといっしょにいたいという願い。主人公のみらいたちのそういった姿が、夢を見せてくれたからでしょう。

それは当時、なわとびに重ねて見えたものと同じでした。


思ったのは、魔法ってやっぱり「特別」なものだということです。

他のシリーズを2、3見て改めて思ったんですが、『まほプリ』って魔法という追加要素がかなり大きいんです。プリキュアに変身する一番の見せ場は他のシリーズと同じなのに、日常で魔法まで使えてしまう。

3世代が出演する映画版を見たとき、全員変身アイテムを封じられてピンチ! というときに、ほうきに乗って脱出するシーンがあって、「魔法はアリなんだ!?」と軽く驚いた記憶があります。考えてみれば封じられたのは変身だけで、もう1つの「特別」、魔法は生きてたわけです。他のプリキュアチームと共演してるから、まほプリ勢の魔法だけが頼みの綱になる特別感は印象的でした。

他のシリーズにもあるのかもしれませんが、演出もちょっと魔法的で、オープニング曲が陽気で元気なおまじないみたいなノリなうえに、同じ曲が後期に「変身」するとか、敵が毎回、2つのものを素体にして合成魔獣(キメラ)みたいに現れるとか、演出にもちょっと特別さを感じます。


でも、魔法ってたしかにこういう特別なものでした。

なわとびでもそうでした。短縄でなく「単縄」と呼ばれるなわとびを知ったとき、魔法めいた不思議さを感じたのを覚えています。

跳んでる人は普通に跳んでるだけでうまい。3重とびとか3重あやとか軽々成功させてしまいます。でも、それはまだ短縄の延長で、2重とびとかはやぶさを練習しつづければもう1回多く回せる人だっているよね、とどこかで想像の範囲内に思える部分があるのです。

そこへ飛びだすTJやリリース。しかも、音楽に乗せて、次々と見たことのない技が出てくるのです。うまいだけじゃなくて、想像してなかったものが目の前で繰り広げられる特別感。

だから、単縄は魔法だったのです。

『まほプリ』の演出の話と通じますが、単縄も、「見せる = 魅せる」ことにシフトして発展した部分もあるのでしょうね。


そして、あこがれが大切なものに変わっていくところも同じでした。

みらいは中学生にしては幼い子です。楽しそうなことを見つけると「ワクワクもんだぁ!」と大はしゃぎ。変身後の大人っぽい姿との違いを強調する意図もあるらしいのですが、僕は素直に、魔法を信じている「子ども」 ―― 特に、見ている子どもそのままの姿なのかなと思ってました。

そんな子が、リコという魔法つかいに出会って、あこがれていた魔法が願いの結晶だったと知っていく。物語の中で魔法は何度も唱えられますが、それだけでだれかの願いがかなうシーンは案外少ないです。魔法自体が失敗することもあれば、魔法ですら届かないときもある。

あこがれだけではままならない。でも、あこがれは願いに通じていて、やがて願いが魔法になる。魔法の杖を手に過ごしたみらいの1年は、「子ども」がすこしずつ何かを手にして、成長していく話でもあったと思うのです。

僕も、なわとびしていく中で、あこがれているだけでは跳べない技に何度もぶち当たりました。ブログで書きつづけたように、どうやったら跳べるのか考えてきました。なんとか4重系の技やリリース技で楽しめるようになった今、楽しめていること自体が大切なもので、時間をかけて自分にかけた魔法のように思えるのです。


以前、こんな文章を引用しました。

昔、自分は魔法つかいと友達だった。大人になったらそれをなかったことにできるのか?

  ―― 朝日奈みらい (あさひなみらい)とは【ピクシブ百科事典】

この一文でブログに書き残したい言葉が生まれたから、本編もちゃんと追いかけようと思った部分があります。その第49話。みらいがただの木の枝を握って、泣き叫びながら魔法を唱えつづけるシーン。魔法という、子どもっぽいモチーフを映した存在だったみらいが、もう一度魔法にすがりついた瞬間。

このシーンを見返したとき、跳べない技を必死に跳びつづける自分の姿とかぶりました。「跳べる魔法」なんてありません。でも、魔法をあきらめることは、あこがれを捨てることと同じです。かなわない技を必死で跳びつづけるとき、みらいのような大きなドラマでなくても、心の奥底では、泣き叫びながら「跳びたい」と魔法を唱える自分がいるのかもしれません。

子どもじみたがむしゃらさでもかまわない。
なんとか跳びたい。
大人のあきらめじゃなくて、子どものころのようなあこがれを――。

魔法が大人になることで失われる象徴だとしたら、みらいが「子ども」だった理由はそこにもあったのかな、と思いました。たとえ子どもでなくなっても …… というメッセージがそこにはあるような気がします。

あこがれを失わなくてよかった。そんな願いをもう1つ、次回もすくいとりたいと思います。