■ 見えない終わりを眠るように思う
今回は「終わりのこと」。
お盆の季節なのでこんなテーマで。
たまに、なわとびの終わりを意識します。
30代で単縄を始めて10年近くたちました。今も休日は2時間くらい跳んでます。終わりなんて見えそうにない ―― と、心は子どもみたいに跳ねてますが、それでも終わりがちらつくのは、やっぱり腰。
単縄を始めてから10回くらい腰をやっていて、曲げたり伸ばしたりで危なさを感じることが増えました。無理に試さなくなった技もあります。それは、いくつかの技に終わりが来たということでもあります。
そのわりに、どうなるかわからないのを楽しんでいる感じもしますね。
春に、『しゃもぬまの島』という小説を読みました。
上畠菜緒さんの小説すばる新人賞受賞作で、人を天国に連れていく風習を持つ島の生き物「しゃもぬま」とそれを取り巻く人たちをめぐるお話。現在と過去(記憶)が交互に語られるんですが、島を出て生気のない生活をしている現在に比べて、島の子どものころの過去(記憶)は不思議な生気があります。
薄暗い山の中に、夏の日差しが反射して飛び散っていた。紫織は口を腕で拭うと、次の魚を捕まえて口に放り込んだ。
次々と、夢中で魚を捕らえる紫織は、しなやかな野生動物みたいだったし、一心不乱に魚を呑(の)み込んでいく姿は、この世ならぬもののようでもあった。
「神様みたい」―― 上畠菜緒『しゃもぬまの島』(集英社)
このシーンに差しかかったとき、「何を読んでいるのだろう」と惑(まど)わされた感じがしました。創作物はしゃもぬまだけで、あとはあくまでも普通の人間だと思っていたからでしょう。
単縄の技を初めて見たころの、目に焼きつくようで、むしろ目を泳がされる気分を思いだしました。思ってもみない動きをする縄と、縄の中で確かにそれを操る人。運動は苦手だけどなわとびならすこしだけ、だった自分が、初めてスポーツに踏みこむきっかけでした。
そんな作中の幼なじみも、現在は姿を変えてしまう。
過去の主人公の語りに、生気というか真剣さがあるのは、子どもにとって島の因習が絶対であったことも大きいのでしょう。いやでも直面して、真剣に意識を向けないといけない。だれでも子どものころ、手を出してはいけないと信じていた風景があったと思います。そんな過去と、弱々しい現在の語りは、小さな劇場で生と死のモチーフを繰り返し聴いているような印象でした。
このへんも、自分や他人のなわとびに前向きに目を光らせていたころと、それほどでもなくなった今の対比に似ている気がします。作品ほど死のモチーフが迫っているわけではありませんが、なわとび界への興味が薄れれば、自然、残るのは自分のなわとびだけになります。支えているのは、気持ちとは別に、跳ぶ体そのもの。そして不安がよぎるのは腰……。
『しゃもぬまの島』で、すごいな、と思った表現があって、
(すみません。すこし残酷な場面になります)
重たい頭を失った首許は、遅れて噴き出した血の勢いに弾かれたように、少し上に持ち上がって揺れる。果実をもいだ瞬間の、夏みかんの木の枝。
しゃもぬまには、首を刎(は)ねることで弔(とむら)われる風習もあります。その瞬間を、島の果樹園に並ぶ夏みかんの木からイメージさせた一文が鮮烈でした。
縄が切れる瞬間や、腰の筋を痛める瞬間の、何かが弾ける感触にも近いでしょう。終わる一瞬に散る火花。「刎ねる」と「跳ねる」が同音なところにも、偶然ながら「引き寄せられたのかな」と思える部分がありました。
なわとびを続けながら頭をかすめる「終わり」はそんなイメージです。
ただ、イメージなだけで、いつ訪れるかわからない。『しゃもぬまの島』のようなつかみどころのない、夢を見ているような、そんな生と死のまどろみの中で自分のなわとびは続いています。その先にあるのは――。