■ 「見える」からこそ問われるもの
今回は「予言のこと」。
いまだに失敗を読みきれません。
「自分はここで引っかかる」と気づいたパターンはたくさんあります。サイドスイングから手や体をねじってしまうとき。リリースで手首をひねってしまうとき。上半身を伸ばせずにジャンプが中途半端になってしまうとき。
でも、それが跳ぶ(回す)前に自分の中に注意信号として走ることは少ない。ミスしてから、「そうだ、ここが自分の弱点だった」と思いだすことばかりです。
なわとびに限らず、こんなときどうすればいいのでしょう?
対策の1つはメモです。
いろんな技の注意事項をメモっておいて、跳ぶ前に確認する。単純なようで、面倒だからとやらない人は案外いるんじゃないでしょうか。
たしかに技練習のたびにメモなりノートなりを見返すのは時間がかかります。でも、それで同じ失敗をしていては、せっかく気づいたポイントの持ちぐされ。面倒でも、繰り返し見ることで、直すことがクセになります。悪いクセを修正するクセで上書きするような習慣が助けになります。
ただ――。
僕もそうなんですが、ミスしがちな部分が複数になると手ごわいです。AはできたけどBを見落とした、みたいなことがよく起きます。メモはしてある。でも、いくつもポイントが並んでいるから一度に押さえきれない。わかっているはずなのに ―― わかっているからこそ、不安が現実になる。
まるで悪い予言です。
「…… 予言そのものが誰かを傷つけたわけではない。心に負い目のある人物が予言を真に受け犯罪に走ってしまった。 ……」
―― 今村昌弘『魔眼の匣(はこ)の殺人』(東京創元社)
このまえ読んだ、予言がテーマのミステリから。事件そのものにも予言が強く影響する中で、ある人物はこう語りました。予言を「ミスしそうなポイント」に置きかえるなら、たとえ弱点であってもポイント自体は間違っていません。でも、そのポイントをどう受け止めるかで、その後の展開はがらりと変わります。
たとえば、足によく当たるとわかっているからひざを曲げてしまう。たしかに縄は通るかもしれません。でも、ひざを曲げるのを意識しすぎるとジャンプを真上に踏みこみづらいでしょうし、実は縄がそれているから足に当たっているのかもしれません。前回書いた、縄の高さ(上下)の問題に見えて、実は縄のズレ(左右)の問題が先にある話ですね。
それを「ひざを曲げる」という、やや強引なやりかたでなんとかしようとするから崩れるのです。変化球でうまくいくのはピッチャーであって、ジャンパーでうまく跳べてる人はあまり見ません。ミスをなんとかしようとするあまり、手立てが浅くなってしまう瞬間でしょう。
失敗する、という見立ての重みは大きいです。
それがどこかで気持ちをせかして、技術を待たずに手足を動かしてしまう。僕みたいに体のクセに揺さぶられる場合もあります。それでも、答えになるやりかたはどこかにあります。人に聞く。聞けなければ考える。メモを1つ1つ解消していくだけでもいい。
予言には実現を。動けるのは自分自身です。
『魔眼の匣の殺人』ですが、大絶賛された第1作よりこちらのほうが好みでした、
推理が予言を上回ったと気づいた瞬間が、僕にとってはクライマックスでした。前作と同じでホワイダニット(なぜそうしたのか?)の答えもなるほどでしたが、考えぬかれた物語の果てに主人公が決然と相手を見つめる姿が、千里眼にすべてを決められまいとする者の「目」だったように思えます。
ただ、犠牲者たちの行く末は読んでてきつかった……。誰もが被害者になりうるのが推理小説における予言だとしたら、仕方ないことなのかもしれません。でも、仕方がないと腕を下ろしてしまっては気持ちの終わりです。なわとびでも、同じでしょう。