とびまるの「なわとびのこと」

なわとびのことを書いたり描いたりするブログ。

685 シャッター

■ 次のチャンスはないかもしれない

今回は「指導のこと」。

4年生の子にはやぶさを教えてほしいと言われました。

見せてもらうと、CO(交差 → 開く)タイプのはやぶさ。交差を回すのがゆっくりで、手を開くときには着地していて回しきれない様子 …… と、そこまでは見てわかるんですが、とっさにアドバイスが出ませんでした。

頭の上まで回しきってから交差に入ったほうが勢いがつくかも、のような話を実演まじりで伝えたものの、短い時間で終わってしまいました。

学校の池のそばを歩きながら、たとえば交差から跳んでみるとか、背伸びしながらエアはやぶさでイメージを作るとか、そもそも速く交差を回せるのかとか、池のポンプから出る水流みたいに思いつくことがいろいろ出てきて、次はもうすこし伝えられる、そんな期待があったのです。

でも、その子は姿を見せませんでした。

次はもっとあの子が上手になれる時間だと思っていました。逆に、あの子は「ムリだ」と思ったかもしれません。あの短い時間に、お互い違うものを見た気がしました。


浮かんだのが、このまえ読んだこのシーン。

「人が」
 少年が、口を開いた。
「人が死んでく」
「違う」反射的に植戸は応えた。「助けられてるんや。レスキュー隊や救急隊に。みんな助かる」
 少年は、植戸の存在を思い出したかのようにこちらを向いた。黒い髪が風になびいた。

  ―― 青崎有吾「加速してゆく」(『11文字の檻』所収)(東京創元社


実際に起きた鉄道事故に題材を取った短編小説です。事故現場が見える建物に居合わせたカメラマンと少年。同じ現場を見た2人の口をついた情景は、およそ正反対なものでした。

 ―― 次はもっと教えられるようにしよう。
 ―― 教えてもらえたのに、できなかった。

うまく教えられなかった1回が、その子をあきらめさせてしまったのかもしれない。考えすぎだと思うでしょうか。昔から、たまに感じていたことです。焦(こ)げた紙が風に散るように、手の届かない場所へ消えていくような喪失感。


出張指導をしている人は「強い」と思います。

教えられるのは一度限り、ということもあるはず。そこで教えきれなければ、その子は、教えてもらったのにダメだったと、なわとびを終わらせてしまうかもしれない。

僕も以前は出張指導にあこがれがありました。実際に、児童館で教える機会を何年かいただけました。それですら、1か月に1回、定期的に出会うチャンスのある時間でした。もしそれが毎回違う子たちだったら ―― 跳べない子が常に生まれても不思議でない時間だったら、はたしてやる気を持ちつづけられたでしょうか。

危うい状況に助けや救いを見たカメラマンと、落命や喪失を見た少年。それぞれの立場でシャッターを切るように描かれた姿は、なんとか跳ばせてあげたい指導者と、跳べずにあきらめて背を向ける子どもの姿に似ています。


「 …… 俺は、みんなが知りたがるから写真を撮ると言った。でもそれは間違いやった。俺たちは、みんなが知りたがらないから写真を撮るんや」


終盤で、カメラマンの植戸は少年に告げます。

なわとびの指導なら、好きな子にアプローチすればもちろん喜んでもらえます。でも、「教える」のを必要としているのは跳べない子。跳べない子にシャッターを切って、手を差しのべるのが指導。

場合によっては、教えきれないことで、その子が自信を失ってシャッターを下ろしてしまうかもしれません。教えようとしたことが間違いだったのか、と真顔になることもあるでしょう。

指導者が、誰かを救おうとした気持ちまでは、否定できません。きっとその人は、次がなくても別の場面で同じ苦しみを生まないように、教える技術を重ねていく。ただ、教えることが、その子の「できない」につながるかもしれないことを、忘れてはいけないのだと思います。

イラスト:はやぶさを跳ぼうとする女の子と、教えている男性。女の子の表情は真剣ながら細い緊張感がある。男性は笑顔で声かけしている。シャッターの絞りが、それぞれ2人をとらえる演出。

期待感と、か細い緊張感。