■ どうしてそのフォームで跳ぶのか?
今回は「見た目のこと」。
―― なんか気持ち悪い(笑)
昔、TSを見せたときに子どもに言われました。どこかでそう言われる日があるんだろうな、とは思っていました。
TSは背中側で交差を回す技。「手が後ろに回る」が逮捕された様子を表すように、後ろ手という姿は、拘束・束縛を連想させる格好です。そんなフォームで、ときに回旋数を上げて背中側のはやぶさを跳べば、普通は驚きが返ってきます。やっぱり、後ろ手で回せるとは思えないからこその驚きでしょう。
でも、「わざと」後ろ手になるって、からかいのターゲットでもあります。すこし年齢を重ねた子どもなら、自分から責められるような格好になることがどんな意味を持つか、わかるからでしょう。
KNを跳ぶ人が多くなって、同じことを感じました。
KNは、片手を頭の後ろ、片手を片足の下に入れて跳ぶ特殊交差。もはや交差なのか特殊な姿勢なのか謎な雰囲気も漂(ただよ)いますが、れっきとしたなわとび技です。他の技ではあまり感じなかった「見た目」の印象をKNに感じたのは、手が頭の後ろに回っているからでしょう。
モンキーという技があって、これも頭の上に手を回して、もう一方の手は股の下あたりに置いて、縄を横回転させます。子どもにウケがよくて、理由の一部には、おふざけがあるからだと思ってます。KNは後述するように、競技的にはまじめで勝負をこめた技なんですが、頭の上の手が、ときにサルを連想させる技でもあるのが自分のイメージ。
僕も公園でやってみることがあります。このフォームで縄が通ってしまうのがちょっと気持ちよく感じます。ただ、体が固くなってきたせいか、頭の後ろに手を回すだけできつい……。それで苦しげに跳ぼうとするんですから、視界に人の姿がちらつくと、恥ずかしいときもあります。
見た目と視線は、たびたびふれてきたテーマです。
跳んでる側としては真剣ですが、単縄レベルまで踏みこんだなわとびの物珍しさにどんな視線が向けられているかはわかりづらいです。すごい技でも単調に続くとイメージが変わるのかも ―― なんて話も昔書きました。
何ごとも継続できるだけで価値はあります。なわとび的に見ると、姿勢や持久力を維持できているところにすごさがある。得意な子でも、2重とびを 50回も跳べば、きっと続けることの大変さがわかるでしょう。
ただ、同じことばかりを繰り返すとか、変われないとか、負のイメージに置きかえられてしまうのもよくある展開です。見る側に小さく芽生えた「不自然」の種が、しだいに大きくなってしまうのは、跳びつづけることでも、特殊な姿勢でも同じ。
「憶えておくといい。ユーモアが終わるとき、差別が始まるんだ」
パフォーマーをめざす男の子が主人公の短編から。戦時中のヨーロッパが舞台なので、身の危険にすらつながる背景があっての言葉です。普通の社会でも、小さなグループであっても、十分ありうる話だな、と思います。
KNは「勝負をこめた技」と書きました。
頭の後ろや足の下のように、手が制限された状態で技が通ると、技レベルが上がります。競技だと、レベルが高いほうが得点も上がるので、両手とも制限されてレベルが上がる技を多くの選手が挑戦します。KNもその1つ。
そんな背景を想像できれば、見た目の印象なんてがらりと変わるのでしょう。
上に出した短編は、タイトルのとおり、おならを使った芸が出てきます。他の作品もすべてそう。ふざけているようで、人生のかかった一発が放たれる物語ばかり。見た目で選ぶ前に、なぜその人がその姿を選んだのか、そんな想像力が問われるのでしょう。