今回は「満足感のこと」。
飽きた、というのは、満足したってことだなと思います。
5年も6年も単縄を続けてきて、始めのころはいつまでもやっていけると思っていたことが、すこしずつ減っていきました。イベントに出向くのをやめ、動画を見せるのをやめ……。
続かなくなったのは「飽きた」に近くて、これまでずっと、飽きたことに罪悪感のようなものを感じていました。「なわとび好きなら、好きで続けなければいけない」みたいな思いが心の片隅にあって、飽きることは、なわとび好きな自分への裏切りのような感覚でした。
でも、どこで飽きるかは、人それぞれでしかありません。
たぶん、自分の中に、はっきりとは言葉にしていない基準があって、たとえばイベントなら「ひとまず参加してみる」、動画なら「うまくいけば見せる」といった、なんとなくの決まりごとがあったのだと思います。
そこまで行けばまずは満足。いったん終わりです。それ以上は自分にとってムリをすることになりかねません。
ところが、そんなときでも、ネットで見かける活躍中の人を基準にしてしまいました。そういう人たちのように続けていないと、なわとびを好きとは言えないと錯覚していた気がします。
気持ちが「もういい」と言ったとき、ギブアップととらえるか、ゴールととらえるか。
人の基準に合わせて、もうついていけないと感じたらギブアップ。それじゃ悲しいです。せっかくそこまで楽しんできたことなら、ゴールととらえたほうがいいでしょう。
それがつまり、満足したということです。
ただ、まだ見えないものがあれば、気持ちは続きます。
今も練習しているのは、さらにできそうな部分があって、満足に行きついていないから。なんだかんだで、5年以上たってリリースが手元に戻ってきたり、多回旋で縄が気持ちよく抜ける瞬間が出てきたりしています。
本当は1~2年でそこにたどりつきたかったし、活動を広げれば自分の感覚を見抜いてくれる人にも出会えたかもしれません。でも、ここまで続けてきたものが、自分の領分でした。
自分にとっておさまりのよい形でしか続けられませんでしたが、それが満足できる水準だったのだと思います。
この4月から新しい小学校に転勤しました。
着任式で10秒だけ跳んで拍手してもらえたり、クラブ活動もできそうだったりしています。あと、まさかの出会いがあって、僕が単縄を始めたきっかけになった先生が一緒に転勤してきて、もう一度同じ学校で働けることになりました。
なわとび自体はひとまず満足できるところまで来たと思いますが、続けてきたことが新しい学校でどういう形になるか、もうすこし気持ちを持ち続けられそうです。
ブログはここで400回。読んでくださっているかた、ありがとうございます。