とびまるの「なわとびのこと」

なわとびのことを書いたり描いたりするブログ。

500 草なわとび、野良なわとび

今回は「なわとびのこと」。

自分にとっての単縄は、タイトルのようなイメージだと思いました。

公園で跳んでばかりなので、草野球とかストリートバスケに近い時間です。人数は1人ですが……。

今まで、いろんな場所でなわとびをする機会がありました。印象深いというか、素直に楽しかったのは、森林公園の一角や河川敷で練習していたときです。

技術的には今よりずっとへたな時期でしたが、それ以外で思い悩むことがあまりなかったからこそ、かもしれません。何より楽しかったと思えるのは、それっぽくない場所でなわとびをしていたからでしょう。

なわとびが好きな自分が好き。

口にする場所しだいではバカにされる言葉だと思います。わざわざ人目につくところで何のアピール? なんて言われそうな……。でも、だからこそ楽しい一面はあります。おそらく、施設を借りたガチ練よりも、そういう「雰囲気」の中でなわとびすることに、僕は幸せを感じています。


コロナでいろんな人が物事への向き合い方を変えたと言われています。

「本当にそれが必要ですか?」

言葉は違えど、そんなメッセージを投げかけられることが多かったのではないでしょうか。家事や部屋の整理、仕事なら会議や出勤そのものの変更を進めた人も多いと思います。

僕も、なわとびがそうでした。

ネットでなわとび関係のサイトはほぼ見なくなりました。単縄の世界に関わりを持とうと踏み出しているわけでもないのに、「本当にそれが必要ですか?」 ―― あのメッセージがそこに刺さってきました。

単縄のブログを書いているのにそれはどうよという面もありますが、動画をすこし見るくらいで、もうすこしプレーンに近いところで跳んで書いてもいいんじゃないかなと切り替えて、数か月になります。


実は、これがいい形で技術の向上につながりました。

コロナで、それまでの動画歴とリンクしたのか、「家トレ」などトレーニング系の動画がよく出てくるようになりました。ジャンプとか体幹とか、気持ちに引っかかったものを見ているうちに、なわとび以前の基礎的な部分で、感覚が変わってきました。

ジャンプなら肩から上を持ち上げる、短く踏みこんで跳ぶ、バランスならグリップの角度。今まで、気づかなかったことが、体の動きからの延長で感覚として見えてきました。

おそらく、「運動してこなかった自分」が初めて自分の感覚を言葉に・イメージにできはじめた時間でした。それがなわとびにいろんな形でつながっていく。ブログで、ときどき「気づいた」話が生まれたのは、その流れからです。

遠回りな気もしますが、それくらいのゆるさがちょうどよかったのかもしれません。


雰囲気、ゆるさと書いてきて、思い出す言葉があります。

「少年野球は努力をすれば楽しいし、うまくなれる。しかし清原たちのいる世界は結果を出し続けないといけない。それは自分の中では違うものだから」
   ―― あの夏、清原に挑んだ 中日新聞 2018年8月4日

対戦相手である愛知県・享栄高校のエースだった村田忍さんの言葉です。当時、新聞で読んで、そっと肩に手を置かれたような感覚が消えずに、書き残しておいたものでした。

僕は、少年野球で指導を続けた村田さんほど熱心になわとびをしているわけではありません。雰囲気、ゆるさでちょうどいいと思っているくらいです。ただ、どこかに「単縄を続ける以上は」「単縄でブログを書くのであれば」のような力みがあったように思います。

コロナが不思議なきっかけになって、その力みがやわらいだのでしょう。

これ以上はもういいかな、と思ってからが恐ろしく長い気がします。それでも、今は楽しく、ついでにわずかにうまくなりながら、跳べているのが幸せです。

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