今回は「ガチャのこと」。
―― 本人が引こうとしたわけでもないのに。
最近、「親ガチャ」という話題を見ます。内容や人の意見以前に、言葉自体にどこか収まりの悪いイメージを感じていたんですが、練習で跳んでいるときに、何が自分の中で引っかかったのかがわかりました。
本人が引こうとしたわけでもないものを、外野が「ガチャ」と呼んでいる。
この構図がきれいに見えなかったからです。当事者(そういう環境で育つしかなかった人)にしてみれば、賭(か)けごとみたいに、今風の軽く聞こえる呼びかたにされてるわけで、はたして気分がいいものなのか……。
もちろん、話題になれば、考えてもらえるチャンスも生まれます。その効果のほうが大きくて価値があるなら、ガチャという言いかたも必要悪になるでしょう。だとすれば、せめてもうすこし別の言葉だったらよかったな、くらいの話なのかもしれません。
なわとびしていてそう気づいたのは、自分にもままならない部分があるから。
トードで片足立ちになると、気づけば体が傾いています。筋肉は右半身のほうがついて重いし、足も右足だけ右に開いてゆがんでいる。ほんとどうにもならないなと思います。
これを「体ガチャ」の結果だと言われたら、いい気分なわけないよなと気づいたのでした。僕の場合、生まれつきだったかどうかはわかりません。少なくとも右に重いのは学生のころに気づいたことです。ただ、運まかせでハンドルを回したらはずれだったね、はさすがにないなあ …… と。
言葉をぼかしますが、もっと症状が重い人にも同じ言いかたができるのか? ガチャと言ってしまうのは、程度が違うだけで、そういうことなのだと感じます。
焼かれるために生まれたわけではない。墜ちるために舞ったのではない。それなのにいったいどうして――
―― 月原渉『炎舞館の殺人』(新潮社)
たぶん、これくらいなら許されるラインはどこかにあるのでしょう。あまり言葉にこだわっているとただの言葉狩りで、本来の話題(その環境をどうするか)から遠のいてしまいます。見失ってはいけないのは、ままならないことにコンプレックスを持つ相手の気持ちでしょうね。
ここからは遊びのガチャ。
なわとびに取り入れるならどんなガチャがあるでしょう? ぱっと浮かんだのは、以前アベシさんが作っていた、ランダムで技カードを引いてその組み合わせで跳ぶゲーム。あれもアナログなガチャだと思います。
アプリならいかにもガチャっぽいのができるでしょう。……というか、ランダム表示の要素部分を編集できるアプリならすぐですね。遊びでもあるし、技の挑戦は結局練習にもなるしで、取り入れてる人もきっといるでしょう。単縄は、前とびに戻らないと次につなげづらい技も多いので、何を組み合わせるか、技候補の選定や、条件分岐も考えると、プログラミング学習にもなりますね。(継続性の扱いが案外難しそうな気もしますが)
前後に切り替えればなんとかなる3連か……?
最後に。
少なくとも自分は、整体に行くとか手立てはいくつかある以上、終わりのない話というわけでもありません。「体の傾きに付き合いながら」程度でなわとびを続けているのは、間違いなく僕自身の選択です。運まかせではなく、自分で選んで決めた以上、もうそれは「ガチャ」ではないのです。