とびまるの「なわとびのこと」

なわとびのことを書いたり描いたりするブログ。

580 左手の先生

今回は「利き手のこと」。

リリースと言えば、ずっと練習しているのが「左右かけ足」。

かけ足リリースには、ちょっとした気晴らしで跳んだり見せたりできると気持ちいいだろうな …… というあこがれがありました。ようやくできるようになって、1~2年くらいでしょうか。

これを、持ち手を左右交互に変えて跳ぶのが「左右かけ足リリース」です。ストレッチやトレーニング系の動画で左右均等にとよく聞くのもあって続けています。利き手じゃない左手側のほうが回しづらいので、そこをどうしたら ―― という話。


いかに右手のマネをするか? と試してきました。

左手だけでもがんばって習得することもできそうですが、リリースを覚えた右手にすでに「コツ」があるなら、それを参考にするほうが早いと思ったのです。言ってみれば、自分で自分を教えられるということ。

リリースなら、前回のレッグオーバー(?)リリースでも書いたように、一般的なMICリリースは、「上に伸ばす」「軌道を垂直にするためにグリップを傾けすぎない」の2つが重要だと思っています。少なくとも、僕はリリースを崩さないために、ここに気を配らないといけません。これが、僕の右手がつかんだ「コツ」です。

そうやって考えると、同等なことは難しそうな左手でも、ポイントをしぼって回せます。失敗しても、右手と比べればおかしなところが見えてくる。暗中模索にならない安心感がありました。

ただ、だんだんと、行きづまりを感じてきました。非利き手のほうが不器用なので、利き手と同レベルのことをできるわけではないのは当たり前です。それにしたって、どうにもキャッチがうまくいかない。


ここにきて思うのが、左手の技術って右手の再確認でもあるということです。

利き手の右手ですら、リリースはずっとできませんでした。今でも 100%の自信があるわけではありません。つまり、お手本にするには足りない部分が多いので、左手のレベルアップもそこそこで止まってしまうのではないか?

「ああ、右手もこのへんがダメなんだな」 …… がわかるのです。

左手でうまくいかないときは、当たり前のように右手でやっていることを確認しました。でも、その「当たり前」は完全無欠な技術なのか? 僕のように、左手に教えきれないとき、お手本のはずの右手でも、未熟な部分、さらに向上できる技術がまだあるのではないか? ―― この気づきが、もっと未熟な左手からのフィードバックでもあると思いました。

僕はへたなのでこういう話になりますが、上手な人でも同じでしょう。(目を細めないと見つからないくらい、研ぎすまされた余地だと思いますが)


読んでいたマンガのモノローグで、似た感覚がありました。

タメ年だと条件が同じだ
『俺は出来るのになんでお前は出来ない?』という期待を遠慮なくかぶせてしまう

それは相手からも同じだ
その関係性が俺は妙に息苦しかった

      ―― 珈琲『ワンダンス』第30話「壁vs.伊織 3」

僕には、同年代のなわとび仲間は今も昔もいません。むしろ、年下さえ自分より格上でした。比べられるのは自分 ―― とはいえ、過去と今では、やはり別人です。ずっと同じ体についている2本の手すら、利き手かどうかで腕前が違う。それでも、どこかに「出来る」はずだという驕(おご)りがあって、それがひそかに自分を縛っているような感覚。

利き手と非利き手を行ったり来たり。そこから、すこしでもうまくなって楽しめるといいですね。

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「人の手」だって助けてくれることもあると思って、浮かんだ小話でした。