とびまるの「なわとびのこと」

なわとびのことを書いたり描いたりするブログ。

459 自問自答を乗り越えて

今回は「演技のこと」。

1年半ぶりくらいに人前で演技してから半月ほどたちました。

動画を自分で見返すこともそんなになくて、何人かに見せたとき、いっしょに見たくらいです。ミスったところや、フォームがあやうい技は、さすがに見ていて恥ずかしいんですが、それでもなんとなく、今だと妙な満足感があります。

ブログで書いたときにもあったこの感覚、いったいなんなのかな …… と、頭の片隅に置いてすごしていました。そのうち、思い当たったことが1つありました。


演技中に「見苦しい自問自答」がなかった。

・ミスって、こんなはずじゃと首をかしげる
・思うようにいかなくて、顔つきがけわしくなる。

こういう姿です。
見苦しいという形容詞は自分でつけたものですが、人前なのに自問自答しているような状態、というとわかるのではないでしょうか。

今回はなかったと書いているように、僕も今まではずっと「自問自答シーン」でいっぱいでした。引っかかって首をかしげるとか、縄がからまって不満そうにほどくとか……。ミスったときって、一気に自分の世界に引きずりこまれるんですよね。

演技を人に見せているのに、視線が自分に向いているのです。そのわりに微妙なアピールがあって、こんなはずじゃないんです的な気持ちだけは、自問自答ポーズからわかってほしがっている。

僕が演技中に自問自答ポーズをとってしまうのは、そんな気持ちがありました。苦しさを知ってほしい、という気持ちの表れだったと思います。

今回、そういう様子が本当になかったとは言いきれませんが、ミスっても落ち着いて対処できていた気がします。その姿の違いがあったから、必要以上に落ち込まずにすんだように思えます。


単縄を始めたころ、「ミスったときの笑顔アピール」が苦手でした。

動画でよく見ました。ごまかしみたいで潔くないと思ったんです。でも、今思うのは、そうでなければどんな姿ならいいのか、ということです。

上で書いたような、失敗をわかってほしい的なアピールは見苦しい。じゃあ、せめて動じずに、自分の苦しみを見る人にも押しつけるようなまねはしないことかなと思うのです。

ミスなんて、どんなフォローをしたところで取り返しはつきません。

取り返すのではなく、それ以上の悪化をどう抑えるのか。笑顔アピールは、ミスした雰囲気をリセットする手段なのかもしれません。何より、ミスしても笑顔を返す余裕があるのは、印象として悪くないとも言えます。

ノーミスをめざして、できればすべてが理想のままに跳べればとだれもが思う中で、ミスが続けばすこしずつ気持ちが崩れます。その崩れた気持ちを振り切って、笑顔を作る。笑顔のために意識を向ければ、縄が遅れる可能性だってあるのです。それでも作る笑顔。

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僕にはそこまで余裕を持つ自信はありませんが、せめて落ち着こうと思えたことが、演技中も、演技のあとも、自分を支えてくれたように思えます。なんとなく満足しているのは、過去と比べて、ミスしたときの自分の姿を受け入れられたからかもしれません。


できることなら、もっと早く、こういう段階にたどりつきたかったと思います。

どこかで、今と同じように、広い世界からは気持ちが離れていたと思いますが、できない苦しみが演技の場でも表れてしまうような日々よりは、もうすこし納得できる時間を過ごせたのかなあと……。

もちろん、ミスがなければこんなこともありません。

自分の腕前では望めない話だったとは思いますが、こういう話を書ける体験ができただけでも幸せだったのかなと、時間がたってから感じています。