とびまるの「なわとびのこと」

なわとびのことを書いたり描いたりするブログ。

620 1、0、アポロ

今回は「コンプレックスのこと」。

月刊アフタヌーン』を毎月読んでます。

四季賞」という新人賞があって、受賞作が以前は冊子になって付録でついてました。今は掲載のみですが、一発勝負の読み切りで選ばれたものだけあって、毎回楽しみにしています。

記憶に残る、心に刺さる、そんな作品にいくつも出会えました。2021年春・沙村広明特別賞を受賞した、シイザクヤさんの「アポロ」もそんな作品でした。

ここでも公開されてます。


できない気持ちを抱えたまま、ゾンビにかまれてしまった子の話。

うまく世の中を渡れなくて、自分を変えたいと思いながら人であることを失うことになった子。そんな彼女と、彼女を襲おうとした「怪物」の物語です。

「できない」という気持ちを、なわとびでずっと感じてきました。ブログでもときおり書き続けてきました。複数のものごと(なわとびなら動作)をまとめきれない自分の腕前もそうだし、自分以外 ―― 特に子どもを見るときに、跳べない場面で受け取る感情もそう。

そういう背景が自分にあるから、できない苦しさがにじむシーンで何度も手を止めながら読みました。どうして本を読むのか? ―― 怪物との対話を続けながら、主人公の楓子が自分の命を差しだしたうさぎの挿話に付け加えたせりふが重い。

「なんで私
 ウサギを助けてあげられないんだろうって」


空想の話だから手が届かないと言っているように思えますが、そうでなくても自分にはその力がないと言っているようにも聞こえます。その直前に、「月なんか行かなくても良いのに」と隠すようにつぶやいているのが儚(はかな)い。


跳ばせてあげられなかった時間。

そういうのがね、やっぱりかぶってくるんですよ。子どもも、自分自身も、そうやってできない時間を過ごしていた。月に行けるほど特別な存在でなくても、目の前の技くらいは跳びたかった。それは、「必要とされる」自分を望んでいた楓子と同じだと思います。

ある技を跳べるって、1か0かに見えます。跳べるという言葉がすでに、可能か不可能かを含んでいる。跳べればいいにこしたことはありません。でも、その人を救えるのはそれだけじゃない。ダメダメだったころに比べれば、跳べなくても惜しいレベルまで届くことはよくあります。これを、1に届かないからと0に切り捨てたとき、本当にその人は救われなくなると思うのです。

楓子は、人間でなくなるときまで本を読みつづけました。ゾンビになっても人に迷惑をかけるような自分でいたくない、と。

努力の方向性としておかしいのかもしれません。でも、楓子の終わりの時間をそばで過ごした怪物であるバンパイアは、それを努力と認めた。1に届かなかった楓子を助けようとした。


「アポロ」で怪物はどこか価値ある存在として描かれます。

現実社会だと、たしかに能力をさす言葉として好意的に使われますよね。高校野球の怪物とか。バケモノも案外褒(ほ)め言葉です。それがそのまま存在理由になったかのように、「アポロ」には怪物が存在する。

バンパイアが楓子を「必要とされる」存在にしてあげられたかと言えば、そうでもありません。怪物ですらそれができなかった。ただ、0に切り捨てなかった救いだけは、月明かりのように、強くはないけれど確かにあるものとして残されたように見えました。

このとき書いた話がすこし近いです。1まで連れていけないかもしれない。それでも、せめて、0よりも1に近づいたものを残したい。

僕も、体や脚にゆがみがあるなら、めざせる場所に限りがある可能性はあります。ある程度の満足を手に入れた時点で、もう自分のなわとびは0ではなくなったのだから、縄をたたんでもいいのかもしれません。

でも、やめられないですね。偶像に終わるかもしれませんけど、まだ跳びつづけていたいです。

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月に届かなくても、こういう時間が訪れていたらいいなと願って。