とびまるの「なわとびのこと」

なわとびのことを書いたり描いたりするブログ。

856 ロンリーロープ

■ 孤独でも縄は回りつづける

今回は「孤独のこと」。

「どうしてなわとびしてるんですか?」

このあいだ、公園で男の子に聞かれました。

「うまくなりたいからですか?」

井上陽水さんの歌のようにたたみかけられて、そうだね、とだけ答えたらその子は去っていきました。小走りに向かう広場の反対側には、ボールで遊んでいたお姉さんやお父さんらしき人。ひょっとしたら、本当に聞きたかった人はその子じゃなかったのかもしれません。


実は、それほど真剣に答えた返事ではありませんでした。

その子には申し訳ないけれど、質問に合わせただけです。正直、見ず知らずの人にいきなり聞かれても困る質問だし、運動を兼ねた練習程度なので、大会のようなはっきりした目標もなくて答えづらい。

何より、まわりからしたらなわとびしてる目的が読めないから聞かれた ―― そう感じるから、なおさら早々に切りあげたかったのが本音でした。

ひとりでなわとびしてる珍しさは、良くも悪くも人目を引きます。春先に声をかけてくれた中学生くらいの子のように、「珍しくて気になって」と話しかけてくれるときもあれば、大人がわざわざ公園でなわとびする姿が目につくことに、居心地の悪さを感じている人だっているかもしれません。

目立ったり不自然に見えたりするのは、「ひとりだから」という話はこれまでに何度かふれてきました。僕自身が、ときに気にしつつ跳んでる証拠でもあります。


孤独って、どこか悪いニュアンスで出てくることが多いですね。

上のできごとのあと、ネットニュースで「孤独は1日15本の喫煙に相当する健康被害」なんて記事があって面食らいました。なわとびしてるとき、僕はヘビースモーカーなのか……。

実際は、社会的に孤立していると感じている人が受けるダメージの話らしいのですが、コメント欄で「孤独も悪くないよ」と語りだす人がわりと多かったのがおもしろい部分でした。ムリな付き合いはかえってストレスになるし、歳を重ねれば自分の身の落ちつける場所もわかってくる ―― と、のび太くんのパパがおもむろに口にしそうな語りを入れる人もいました。

作家の森博嗣さんが、エッセイで「僕は孤独という言葉をさびしい意味では使わない」と書かれていた覚えがあります。同じように、自分で選びとった居場所として受け止めている人もいるからこそ、悪くないとコメントする人も多いのでしょう。

ただ、社会的な孤立を前提とした記事に向けたコメントとしてはちょっとズレているのでないか、と指摘する人も何人かいました。個人的には、孤立したら追いつめられる構造こそどうかと思うし、どこかに「人はつながらなければならない」という圧力を感じるやりとりだとは思います。

そりゃあ、茨(いばら)のバリケードのようにつながりを拒絶するような孤独の選びかたなら危うい種も感じますけど、静かに閉められたふすまのような穏やかな孤独だったら、そのまま置かれるものであってほしいです。


なわとびは、孤独な運動だと思うんです。

ダブルダッチやチーム競技は別として、ひとりで身を動かすスポーツには、孤独な側面が必ずあります。ただし、一度縄を止めてまわりに手を伸ばせば、孤独はすぐに開けられるシェルター程度でしかありません。

僕も、始めたころは練習会やイベントに参加していて、つながりは保っている日々でした。でも、生来の孤独寄りな気質のほうが高まって、かれこれ跳ぶときはずっとひとりです。さほど苦にもならないし、基本ひとりの運動であるなわとびは性に合ってるのかもしれません。

もちろん、教えてもらったり、情報を仕入れたりといった、昔はあったメリットは得られません。技術の向上やブログの充実を思えば、むしろあったほうがいいものでしょう。そこに目を向けずに、自分の尺度で続けることが、実力に見あった判断とは言えないのはわかってます。

それでもそちらに踏みこめない。わがままというか、自分のペースでないと苦しいところに、僕のこだわりの強さがあるのだと思います。孤独とこだわり。タイトルになりそうな語感ですが、今はひとりな空気に身を置いて跳べる時間が落ちつくのですと言葉にするのが、素直な気持ちです。

イラスト:公園の広場で交差の縄の動きを確認する男性。背景は湾曲する小径と植え込みと並木。人物と足もとの細かい砂はペンで描いてあるが、あとは鉛筆描き。

公園で孤立しているわけではないんですが。