■ 刺さる人に楽しんでもらえますように。
今回は「マイナーのこと」。
どこかで書いておきたかった話です。
ブログや Twitter で[過去話]を載せるときに読み返すと、なつかしさといっしょに「どれくらいの人がこれを楽しめるんだろう」と、すこし冷めた気持ちになります。単縄がどこまでマイナーかは別として、自分の書いているものはマイナーだと思ってます。
そもそも「書く」が単縄だとマイナーで、跳べてなんぼのなわとびでは動画などを「見せる」人がメジャーなイメージです。書くにしても、理論や後ろ盾をちゃんと持っている人だから書けると思います。僕がうまく跳べないからかもしれませんが……。
たまに、ある一文が頭をよぎります。
「自分が文句なくおもしろいと思うゲームを作れば、刺さる人は必ずいる。」
ゲームアプリ『ひとりぼっち惑星』の制作者・ところにょりさんの講演の一言。
ブログを始めて4年くらいして読んだ話でした。
あえて「意味」とか「価値」とか考えると、この言葉が浮かびます。アクセス数を見てもどれだけの人に「刺さって」いるのかわかりませんが、もう何年も落ち着いた数字が見られます。長く読んでくださっているかたを始めとして、どこかでだれかが見ていてくれるのを感じるから、マイナーでも続けていられます。(ありがとうございます)
似たような気持ちでブログを続けている人も多いかもしれませんね。
ただ、少数派であることは、ときに多数派の存在を意識させられます。
浮かぶのは「魔女狩り」。あやしげな方向性を捨てられない人を魔女と呼んで迫害した ―― というイメージが僕の中にあるからでしょう。検索していくつか読んでみると、どちらかというと迫害した側がレッテルを作りあげていた印象があって、そこまで魔女は魔女でなかったのかなとも思います。
それでも、マイナーであることにコンプレックスを感じるとき、俗語としての「魔女狩り」のような、多数派からの圧力を、一瞬、思い浮かべてしまうことがあります。これは推測ですが、マイナーであることの裏にはその人のこだわりの強さがあって、自分にしか向いていない熱意に居心地の悪さを覚える人たちが、そのこだわりごと「魔女」と呼ぶような……。
これは、公園でひとりで黙々と跳ぶ姿にも起こりうることで、ときにどこかから魔女の烙印が飛んできているのかもしれません。でも、これまでブログでそういう姿を取りあげたときのように、最後は自分の気の持ちようです。考えの違いはどうしようもありません。せめて、自分が楽しむ姿を繰り返したほうが、いつか自然な風景になったときに幸せでしょう。
このまえ、魔女が出てくる読み切りマンガを読みました。
少女姿で蘇(よみがえ)った魔女は、勝手で、あやしげで、過去に何をしていたのかわからないような印象でした。でも、危険と言われる魔道具を作った理由を聞かれて、魔女はこう答えます。
「絵本から動物が飛び出す様は幻想的で みなそれは楽しそうに笑っておった!
ワシはそれが嬉しくての」
住民が挿絵や装丁を手がけてくれたと思い出を語る魔女。あやしげな印象を持っていた自分は、たとえ半歩でも「狩る」側にいたのだと気づいて、まだまだだと思いました。
たとえ魔女でも、幸せを振りまけたら――。