とびまるの「なわとびのこと」

なわとびのことを書いたり描いたりするブログ。

718 まどろみ・繰り返すゴール

■ 終わりは何度でも帰ってくる

今回は「終わりのこと」。

昨年のお盆にこんな話を書きました。


この1年、なわとびの終わりを意識することはあっても、そのまま失われていく感覚はあまりありません。以前より跳べるように(回せるように)なったと思える時間が続いているからですね。いつも書いているとおり、すぐに縄はブレてしまいますが。

それでも、4重とびの成功率が上がったり、ミスの理由や対策を昔より言葉にできたりしているのは、できずにつぶれるよりはるかにいい状態です。


すっ、と胸に落ちる言葉がありました。

「…… ぼく、いつかこういう、不思議とか魔法とか、そういうものに出会ってみたかったんです。魔女も魔法使いも、お話の中だけの存在じゃなくて、ほんとにいるんだって、思いたかったから。目に見えることだけが世界じゃなくて、ふだんは見えていないところに、魔法はちゃんとあるんだって信じたかったから。夢はもう叶いました。 ……」

  ―― 村山早紀『魔女たちは眠りを守る』(KADOKAWA)


魔女たちの出会いと別れを描いた短編集です。めったなことでは辿(たど)り着けない魔女の店を訪れた男の子が、ご褒美(ほうび)に願いを問いかけられて、こう答えました。

今の自分を思うと、自信をもって跳ぶレベルには10年たっても届かないものの、この幼い子が素直に伝えたような、器が満たされた思いがあります。


たぶん、4重とびに慣れてきたからでしょう。

4重とびを跳べなかったことは、気づけばけっこう大きなコンプレックスだったのかもしれません。ワイヤーロープでなら、単縄を始めてしばらくしたころに跳べました。でも、数年前に普段のビニールロープで挑戦したら歯が立たなくて、自分の単縄歴ってなんだったのだろうと感じたのを覚えています。

今わかるのは、単純に基礎歴が足りなかったことです。前回しを、大きなジャンプで、速く回す。初めて跳べてからも安定せず、すこしずつブログでもまとめていくうちに、なんとか毎回の練習で成功できるレベルにはなりました。

ここにきて、4重とびは大きな壁だったのがわかります。超えた今、小さなてっぺんから見渡す景色に満足して、広がる光景に行き先を見つけられないような心境には、漠然と終わりも感じます。あれ、いつのまにかゴールしちゃった? と。


でも、ゴールは一度きりではないんですよね。

4重とび1つとっても、もうすこし着地をやわらかくできないかとか、予備跳躍の流れを変えても跳べるかとか、試せることはいろいろあります。道筋を変えるだけで、技そのものが変わる。何度も繰り返して、何度もゴールがある。

きっとこれは、たとえばマラソンを何度も完走すれば、毎回違うタイムが出るのと同じでしょう。多くの場合、なるべく短いベストタイムがそのつど目標になります。

自分なりの目標に届けば、たしかにゴールですけど、見渡せばまだ違う景色があります。そこに向かうのもよし、ただ眺めるのもよし。終わりを思えば、ひょっとしたら行きつけない場所かもしれません。先に見えるものはぼんやりとしていて、想像するにも手探りで、それでいて、夢の中に穏やかに沈みながら歩いているようです。


上で引用した話は、お盆の物語でした。

思いだしたように帰ってくる、その昔この世にいた人たち。それを見つめる長く生きてきた魔女にも、かつて別れた仲間がいました。

物事にはどこかで終わりは来ると思います。僕のなわとびも、腰にくる技はすこしずつ跳ばなくなりました。これを終わりと言うなら、たしかにすこしずつ僕の縄は欠けつつあるのでしょう。それも1つのゴールなのかもしれません。

そんな中でも、できることを探して、また今日も公園で跳ぼうと毎週思っています。その日の練習を想像しているときは、自分の中では終わったものも、これから始まりそうなものも、全部ひっくるめて、夢の中をたゆたうような楽しさがある。そんな日々を繰り返しています。

『消えたように見えても、世界のどこかに溶けているだけなんだわ』

 

イラスト:左半分に、穏やかな顔で浅い眠りに落ちている魔女の少女が仰向けに横たわっている。手もとにはなわとび。頭の横に横たわる黒猫。黒衣装には細かい線で濃淡。長い髪は大きく広がり、たゆたう波のよう。右半分に、4重とび、リリース、ステップをしている子どもたち。

魔女のまどろみ、夢のなわとび