■ 終わりは何度でも帰ってくる
今回は「終わりのこと」。
昨年のお盆にこんな話を書きました。
この1年、なわとびの終わりを意識することはあっても、そのまま失われていく感覚はあまりありません。以前より跳べるように(回せるように)なったと思える時間が続いているからですね。いつも書いているとおり、すぐに縄はブレてしまいますが。
それでも、4重とびの成功率が上がったり、ミスの理由や対策を昔より言葉にできたりしているのは、できずにつぶれるよりはるかにいい状態です。
すっ、と胸に落ちる言葉がありました。
「…… ぼく、いつかこういう、不思議とか魔法とか、そういうものに出会ってみたかったんです。魔女も魔法使いも、お話の中だけの存在じゃなくて、ほんとにいるんだって、思いたかったから。目に見えることだけが世界じゃなくて、ふだんは見えていないところに、魔法はちゃんとあるんだって信じたかったから。夢はもう叶いました。 ……」
魔女たちの出会いと別れを描いた短編集です。めったなことでは辿(たど)り着けない魔女の店を訪れた男の子が、ご褒美(ほうび)に願いを問いかけられて、こう答えました。
今の自分を思うと、自信をもって跳ぶレベルには10年たっても届かないものの、この幼い子が素直に伝えたような、器が満たされた思いがあります。
たぶん、4重とびに慣れてきたからでしょう。
4重とびを跳べなかったことは、気づけばけっこう大きなコンプレックスだったのかもしれません。ワイヤーロープでなら、単縄を始めてしばらくしたころに跳べました。でも、数年前に普段のビニールロープで挑戦したら歯が立たなくて、自分の単縄歴ってなんだったのだろうと感じたのを覚えています。
今わかるのは、単純に基礎歴が足りなかったことです。前回しを、大きなジャンプで、速く回す。初めて跳べてからも安定せず、すこしずつブログでもまとめていくうちに、なんとか毎回の練習で成功できるレベルにはなりました。
ここにきて、4重とびは大きな壁だったのがわかります。超えた今、小さなてっぺんから見渡す景色に満足して、広がる光景に行き先を見つけられないような心境には、漠然と終わりも感じます。あれ、いつのまにかゴールしちゃった? と。
でも、ゴールは一度きりではないんですよね。
4重とび1つとっても、もうすこし着地をやわらかくできないかとか、予備跳躍の流れを変えても跳べるかとか、試せることはいろいろあります。道筋を変えるだけで、技そのものが変わる。何度も繰り返して、何度もゴールがある。
きっとこれは、たとえばマラソンを何度も完走すれば、毎回違うタイムが出るのと同じでしょう。多くの場合、なるべく短いベストタイムがそのつど目標になります。
自分なりの目標に届けば、たしかにゴールですけど、見渡せばまだ違う景色があります。そこに向かうのもよし、ただ眺めるのもよし。終わりを思えば、ひょっとしたら行きつけない場所かもしれません。先に見えるものはぼんやりとしていて、想像するにも手探りで、それでいて、夢の中に穏やかに沈みながら歩いているようです。
上で引用した話は、お盆の物語でした。
思いだしたように帰ってくる、その昔この世にいた人たち。それを見つめる長く生きてきた魔女にも、かつて別れた仲間がいました。
物事にはどこかで終わりは来ると思います。僕のなわとびも、腰にくる技はすこしずつ跳ばなくなりました。これを終わりと言うなら、たしかにすこしずつ僕の縄は欠けつつあるのでしょう。それも1つのゴールなのかもしれません。
そんな中でも、できることを探して、また今日も公園で跳ぼうと毎週思っています。その日の練習を想像しているときは、自分の中では終わったものも、これから始まりそうなものも、全部ひっくるめて、夢の中をたゆたうような楽しさがある。そんな日々を繰り返しています。
『消えたように見えても、世界のどこかに溶けているだけなんだわ』