今回は「救いのこと」。
―― もうできない!
以前、児童館でなわとびクラブをやっていたとき、跳べなくてかんしゃくを起こした子がいました。ひと区切りついても、腕で顔をおおって寝転がったまま。
ほっときなよ、な空気を感じつつ、僕はその子のそばにしゃがんで、なわとびのグリップをその子の上で揺らしてみました。顔をおおった腕のすきまからそっと様子をうかがっていたのか、自分の上で踊るグリップに気づいたその子は、んふっ、と声をもらして、グリップに飛びついてきました。
なわとびで気持ちを取り戻せた記憶の中で、真っ先に浮かぶのはこの思い出です。
あの子は、そんなになわとびが上手じゃありませんでした。
児童館だと、上達よりも遊びでなわとびすることがほとんどです。それでも、やっぱり「うまさの差」は見えるし、同じことをしてもこの子には難しそうだなと思うときがありました。
家出をモチーフに書いたこの話で出した、「失敗する未来」がまさに見えるのです。そんな未来にどう向きあうのか。
僕は目の前のかなしみに考えを奪われすぎる。
この一文、つらそうな子の姿に踏みこめない自分とかぶります。結局、具体的な手立てをどうするかよりも、かなしい気持ちにこだわってしまうところなのでしょう。この短編の主人公も、『ドナドナ』が「余計だ、無闇にかなしくて最悪だ」と言いつつ、自分の家族のかなしみにはひたすら向きあっている。それって本当はどうなの? と考えが変わっていくのを、自分にも重ねながら読んだ作品でした。
それを思うと、やっぱり、つらい姿にただ引き寄せられるだけじゃいけない。そこから何をしてあげられるのかが、失敗する未来への向きあいかただと思います。
児童館の思い出は、「救えた」と思えたひとときでした。
あのあと、揺らしたグリップに釣られるようにあの子は起きあがり、その日のクラブはもうすねることはありませんでした。かまってほしかった気持ちを拾ってあげられたと思います。
とはいえ、やったぜ、というほどではありませんでした。ほっとした程度。だって、すねた子がもう一度立ちあがってくれるって、マイナスがようやくゼロに戻っただけなのです。楽しめる時間を、その子のために作れなかったからそうなりました。何より、跳ばせてあげられたわけじゃない。技術的に、何かその子を支えた実績になんてなりませんでした。
それでも、あの日の残りの時間が、あの子にとってずっといじけたものにならなくてよかった。今思うと、それで救われていたのは、僕自身でした。何もできず、かなしみにとらわれるだけだったら、できなかった記憶として残っていたでしょう。
ああいう場面に、あと何回出会うでしょうか。
たぶん、ほっときゃいいのにほっとけず、僕はかなしみに引き寄せられそうです。今なら技術もすこしは伝えられるかもしれません。この冬、学校の休み時間に跳ばせてあげられた子も何人かいます。
寄りそうこともありだとは思います。跳ばせてあげられなくても、その子の中にわずかな安らぎが生まれると、自分が信じるしかありません。
椋子の人生を、かなしいっていう一つの感情だけに集約させてはならない。
「ドナドナ不要論」終盤の言葉。泣きだすことだってあるでしょう。その涙を受け止められるのは、自分の決意です。