とびまるの「なわとびのこと」

なわとびのことを書いたり描いたりするブログ。

622 魔法使いのいた場所

今回は「支えのこと」。

昨年の夏、こんな話を書きました。

当時、ストーリーだけ読んでみた『プリキュア』2作品から、大人になってしまった子どもと「魔法」をテーマに書きました。なわとびにも重なるものがある、いいテーマだったと思ってます。

あのタイトルのもとは、以前勤務していた小学校の図書室で借りた児童書の題名です。実はあのあと、もう一度読みたくなって買いました。絶版になっていたので、ちょっと小口(こぐち)の色があせた中古本が、今は手もとにあります。


杉本りえ・作、伊東美貴・絵『魔法使いのいた場所』(ポプラ社)。

黒ずくめの浮浪者のようなおじさんと、その不思議さに引き寄せられた3人の小学生の話。

温かくて、すこし切ない物語は、昔と今とでは、すこし印象が変わっていました。昔(10年ちょっと前ですが)は、最後まで外から話を見つめていた気がします。でも今は、おじさんの黒いコートの端っこに自分が引っかかっているような、そんな気持ちで読んでいました。

自分もおじさんと呼ばれる年齢に足を踏みいれているからかもしれません。でも、年齢以上に自分が変わったのは、なわとびを始めたことでしょう。


公園で跳んでいると、当然、人目につきます。

そんなとき、どう思われているかはわかりません。さとりヘルメットがあってもかぶりたくはないですね。だって、変なふうに思われていたとしたら、いやだから……。

そういう空想の視線を感じながら ―― いや、自分の中で作りながら、僕はずっとなわとびしてきました。子どもたちには魔法使いのように思われつつ、人を避け続けてきた「おじさん」に、そんなところだけ近づいていたのです。

これを書いたのは、そのころでした。

なわとびで手に入れた幸せはたくさんあります。でも、なわとびしている大半の時間は、人目のある公園で、それなのにひとりで、ずっと仕方ないと受けいれて跳んできました。


ひさしぶりにこの本を開いたら、自分がちょっとだけそこにいた。

そんな気分もあってか、10年以上ぶりに主人公の千絵たちの小さな大接近を楽しみつつ、視線はおじさんの姿を追うように読んでいた気がします。千絵たちは、魔法使いのようなおじさんにすこしあこがれて、おじさんは、やがて千絵たちを受けいれて。

終盤、おじさんが千絵たちにあてた手紙で、千絵たちが幸せなら自分は忘れられてもかまわないと伝えるシーンがあります。10年以上たってもこの本を忘れられなかったのは、たしかここを読んだからだったなと思いだしました。そして、たぶん、同じことを思いました。

 ―― そんなに低く自分を語らないでよ。

きみたちはおじさんを、魔法使いだといってくれたけど、おじさんはただの弱虫の人間、きみたちのほうが、おじさんの魔法使いだったのです。


冒頭で書いた話で、僕はなわとびを通じて、いつしか自分が魔法つかいを演じる番になっていたんだと書きました。でも、子どもに見せて、それだけで縄は魔法になるわけではありません。子どもが驚いて、喜んでくれたから、僕は魔法つかいだったのです。


『魔法使いのいた場所』は、人を認める話だと思います。

不審者扱いされていたおじさんを、魔法使いとして認めた千絵たち。心変わりしてでも、その優しさを認めたおじさん。宝石が「ミトメール」と唱えて空白に収まるように、人が人にしてあげられる支えがそこにはありました。

このお話の最後は、次の一文で終わっています。

ひと口にも満たない緑のかたまりは、食べてみると、しっかりとほうれん草の味がした。


見た目は違っても、中身は同じなんだ ―― そういう意味のエンドロールだったのかなと、10年以上たって初めて気づきました。

公園で跳ぶことに、自分の気の持ちようがあるとしたら、こういうところなのかもしれませんね。

当時、思い出に、おじさんと3人が歩く中表紙を画像に残していたのですが、日時を見たら14年前の今日でした……。ありがとう、偶然の魔法。