■ 縄といっしょになれた日
今回は「つながりのこと」。
書きたいことができたので、おまけでもう1回。
『魔法つかいプリキュア!』のぬいぐるみ・モフルンとなわとびを重ねたとき、今までに経験したことがない気持ちになりました。いいかげん、なわとびの話に戻りなさいと自分でも思うのですが、もう1話、お付き合いください。
「まだ終わってないモフ!」(第50話予告より)というわけで――。
モフルンは、魔法とともにしゃべって動けるようになったぬいぐるみです。
生まれたときからいっしょだったみらいにとって、大好きな「親友」としゃべって過ごせるようになるなんて、ワクワクもんの奇跡でした。モフルンも、普通のぬいぐるみだったころから、もしみらいとおしゃべりできたらと思っていて、物語の始まりで夢がかなったのが2人でした。魔法は願い、というテーマを添えるなら、2人の願いがモフルンに生命を吹きこんだとも言えます。
―― じゃあ、縄が生命を持つなんてこともあるのかな?
こんな、ちょっとメルヘンチックなことを考えたのも、モフルンがすごく素直で純粋だったからです。ときどき、「みらいたちといっしょにいられるだけで幸せモフ」と言ってしまうくらい。
この話で、魔法にあこがれることの子どもっぽさにふれましたが、モフルンって、「ぬいぐるみとおしゃべりしたい」という小さな子のあこがれをかなえた存在でもあるんですよね。なんだか、そんなモフルンを見てると、自分の子どもな部分が、縄にも生命が宿ることがあるんじゃないかな? なんて思ってしまうのです。
でも、そんなことは起こりません。ちょっと現実的に夢として語るなら、世の中でそういう実例なんて聞いたことがありませんし、万が一起こるにしても、それに立ち会えるのが自分だなんて奇跡がすぎる。
それよりも、もっと素直に気づかないといけないことがあります。
縄に生命が生まれるなら、それは回す自分がいるからだと。
あくまでたとえですよ。僕も、しゃべって動ける縄に本気で出会いたいわけじゃない。ただ、たとえだとしても、モフルンに生命を与えたのがみらいとモフルンの願いだったなら、何もせずに縄に生命が生まれるはずなんてないじゃないですか。
映画の『奇跡の変身!キュアモフルン!』は、みらいとモフルンの物語でもありました。
自分の願いを問われて、答えられなかったみらいとモフルン。そんな2人が離れ離れになって、お互いの本当の気持ちに気づく。挿入歌とともに、遠く離れたモフルンに向けて目印を送るみらいたちのシーンが、「あとはモフルンだけなんだよ」と言っているようで一番好きです。前回まで2つ『まほプリ』話を書きながら、このシーンとBGMを思いかえして、自分のなわとびに足りないのは、こういうところなのかもな …… と思いながら、休日の夕方、公園になわとびしに行きました。
4重とびに挑戦しようとしたときのことです。ここ最近、あまり成功してなくて、しばらく予備動作でいろいろ確かめていました。なんとなく浮かんでいたのがあのシーンのBGM。音に合わせようとしたわけじゃありません。ただ、みらいとモフルンが離れていてもつながっているイメージに、ぼんやりと心が安らいでいました。
いきなり一発で跳べて、もう1回試したらそれも成功。あ、今、なんか縄ときれいにつながってたなとふと思って、もしかして、こういう瞬間だったのか、と……。
恥ずかしい話なんですが、公園のすみっこで急に泣きそうになって、上を向いてこらえました。別に縄に生命を吹きこめたわけじゃありません。ただ、手もとや地面に垂れた縄を見たとき、それまで考えていたモフルンの笑顔が浮かんで、すこしだけ近いことができたのかなと思えたのです。10年近くなわとびしてきて、経験したことのない思いでした。それだけ縄といっしょになれた気がしたのです。
技術的に言えば、積み重ねてきた成果なのでしょう。
でも、ただ「うまく跳べた」だけじゃない。それでは、縄は自分を飾る道具でしかありません。まるで手を取りあうように回せた感覚が、愛(いと)おしかったのです。楽しさで縄とつながっているような、そんな感覚。
モフルンも、みらいとリコをつなぐ存在です。今回の作品は、そうやって手を取りあわないとプリキュアに変身できません。ちょうど映画は、本編で魔法界とナシマホウ界(人間界)のハロウィン話のあいだに公開されたそうで、モフルンは2つの世界をつなぐモチーフのようにも見えます。
じゃあ、人と縄をつなぐものはなんだったのでしょう。子どものように想像して、楽しさを分かちあおうとした、自分の心だったのかもしれません。
なわとびしてきた意味はあったのかな……。
人はいつでも、100%の楽しさでなわとびを好きと言えるとは限りません。
数%でも欠けたとき、その向こうには瞳から光を失った縄がわずかに見える。残りの 90%で縄はまだつながっているけれど、そのわずかなひずみにすこしずつ落ちこんで、やがて縄と離れたとき、人はなわとびからも離れるのでしょう。
ゆうぞらのはじっこで みつけた星が
ここにいるよと ちいさくまたたいてる―― 『映画魔法つかいプリキュア!』 挿入歌「ふたつのねがい」より
できるなら、縄とつながれる感覚だけでも残っていれば、と思いました。
縄といっしょになれるのは幸せです。でも、本当に大切なのは、どこかで心が離れそうになったとき、あのときの瞬間を思いだせることでしょう。