とびまるの「なわとびのこと」

なわとびのことを書いたり描いたりするブログ。

600 縄に求めて

今回は「なわとびのこと」。

600回です。ついでに5日更新なので 365日ぶりにお正月更新です。

キリ番に合わせて、「なわとびに求めていることってなんだろう?」という話。以前読んだ短編小説で「本質」を考えたころから頭にあった話です。

「たとえばさ、この写真、十字架じゃなくて何か別のオブジェに入れ替えたら面白味とか価値が半減しちゃわない?」

 ―― 舞城王太郎「ほにゃららサラダ」(『私はあなたの瞳の林檎』所収)(講談社


594 引用症候群 でも別のせりふにふれました。芸大だと、やっぱりこういう「そのものが持っている本質」をどう追究するかに重点が置かれるんでしょうか。マンガの『ブルーピリオド』(山口つばさ、講談社)でも、主人公が「これ 絵画でやる意味ある?」と講評で突きつけられるシーンがありましたね。(連載誌を読んでるので、当時、怖いくらいの印象でした)


はっきり言うと、僕はそこまでなわとびを追究していません。

そんな重いものになったら、それこそ回せなくなってしまう。趣味・遊びだから跳びつづけていられるのです。「高い壁だからこそその気になれる」くらいの人でもないと、向きあえないモチーフでしょう。

それでもすこし挑戦 …… くらいで考えてみると、僕にとってなわとびは、「“男の子”からの解放」だったと思うのです。

話が『プリキュア』に飛ぶんですが、去年からすこしずつ見るようになって思ったのは、「なんで『プリキュア』なんだろう?」ということ。これは、 577 心のリリース(1) で昔の自分を思いだしたときにも書きました。どうして、女の子ものだったのか? ここにヒントがあります。

どこかで女の子ものにあこがれたのは、運動があまりできなかったからじゃないか?

当時は「男の子=運動ができる」みたいな理想があって、その理想に届かない自分は、どこかで男の子であることを否定されながら生きている感覚がありました。だから、そこまでスポーツを強要されない女の子の世界にあこがれる部分があったんじゃないか、と。

自分のなれない自分。心理学で言う代償行為のようなものでしょうか。


なわとびは、そんな否定がない世界だった。

僕にはそう見えます。だからなわとびだった。

なわとびは、どちらかというと女の子が跳んでいる印象です。公園や学校だと、低学年くらいまでだとみんな跳んでますが、中学年くらいから女の子率が高まります。クラブに入ってくれる子も大半は女の子。だから、男性が主役になりやすいスポーツの中では、なわとび(単縄)はマイナーであったとも言えます。

「なわとびじゃなきゃダメだった」とまでは言えないにしても、だれかと比較されることの少ない環境が「僕でも跳べる」と思わせてくれたのかな、と思います。ちょっと気持ちに深入りするような話なので、心の声で織られたカーテンは、このあたりでそっと閉じましょう。


ブログは、本来なら「なわとびを語る」場所です。

でも、なわとびを通じて思った・生まれた話にこそ「本質」があるのかもしれません。「なわとび“で”語る」ことに一般性(みんなに届く言葉)が浮かびあがってくれば……。昨年からの変化が、すこし近いのかな。

年末、通りがかりのお子さん連れのお父さんが「なわとびすげっ(笑)」と注目してくれました。指のケガ以来、ひさしぶりに4重とびも跳べました。そうしたうれしい気持ちもまた、素直に本質だと思うんですけどね。

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正月イラストはなかったので1枚。遊び心に縄を添えて。

2022/01/09 ・特別お題「わたしの推し」にも参加してみました。


2022/01/11

アベシさん企画のなわとび博覧会のチラシにイラストを使っていただけました。ありがとうございます。ご厚意でイラスト展示も予定中です。