とびまるの「なわとびのこと」

なわとびのことを書いたり描いたりするブログ。

658 過剰と欠落

■ 受けいれて、跳び越えて

今回は「逸脱のこと」。

以前こんな話を書きました。


高くジャンプできればどんな技だって跳べてしまう。そんな印象のもどかしさにふれた話です。その中で「引く」という言葉を使ったんですが、ちょうど当時、その言葉は受けいれづらいと書かれた話を読みました。


引くって、場に表すとこんなふうに作用している言葉なのか …… と思い知らされた覚えがあります。(あとの流れ含めて趣旨と違っていたらすみません)


あれから思いだしたのがこの話。


縄の音や痛みに距離を置く姿に、近いものがあります。そういったイメージが「過剰」なものだから距離を置く人もいて、子どもの中には回せない(回したくなくなる)子もいるのかもしれないと書きました。

音や痛みの暴力性をテーマにしたものの、そうでなくても「過剰」と感じる部分は人それぞれです。跳びつづけるのが疲れるから過剰と感じる子もいるでしょう。ここで言う過剰とは、程度の差こそあれ、その人にとって受けいれづらい、「イヤ」という気持ちです。

399 の繰り返しになりますが、なわとびなら技術で解決できる部分は多いです。音が激しいのも、足に当たるのも、息切れするのも、回しかたやタイミングを覚えていけば、すこしずつラクになります。少なくとも2重とびレベルなら大丈夫 …… と個人的には思ってます。

それこそ、「できないからイヤ」なのを過剰性に理由を見つけてイヤと言っている人なら、跳べてしまえば、満足感で反応が変わることだってあるでしょう。跳べるようになった子が、痛みにもめげずにビュンビュン回しはじめるのを見たこともあります。

跳べれば一件落着。――ただ、それは、その人の中で収まりをつけたときの話。


思いだし続きですが、さらに1つ。

「過剰と欠落は、云ってみれば逸脱的形態の表裏だからねえ」

  ―― 綾辻行人「フリークス ─五六四号室の患者─」(『フリークス』所収)(光文社)


20年以上前に読んだこの一文が、ずっと記憶に残っています。異形をテーマにした短編ミステリの中で、いやに冷静に聞こえたせりふ。言葉にするとそういうことなんだ、とうなずきつつ、でも、こんなふうに言葉にしてしまっていいものなんだろうか、とうなずけない部分もありました。(最後に出た角川文庫版でもこのせりふは残っていたので、出版物としてはいいみたいですが)

同じ「逸脱」でも、欠落はまだフォローされやすい側面だと思います。ですが、過剰はそこまでとは思えません。欠落は他者が補えるのに対して、過剰はあふれた「それ」を、どこに受けいれればいいのかわからない。しいていえば我慢? だからこそ、抑えきれない気持ちが「引く」みたいな形で出てしまうのか。


過剰の向こうにある欠落を、受けいれられるかどうかなのだと思います。

本当は欠け落ちてなんていないのかもしれません。でも、他者から見れば、「判断の欠落」に見えるからこそ過剰に見える。なわとびでも、そこまでやらなくていいんじゃないの? と思われがちなシーンはいくつもあります。強い縄、高いジャンプ、激しい動き……。

僕が公園でなわとびしてるのだって、悪目立ち(=過剰)に思えている人だっているでしょう。それは覚悟して、8年以上毎週のように跳んでいます。逆に、そういう場所では跳びづらいと語る人もいました。なわとびを広めるときの障壁と聞いたこともあります。

過剰と感じてしまうことはどうしようもありません。人間(あるいは社会は)そう簡単に変わらないし、むしろそう感じるところがスタートでしょう。そこに向きあう手立てこそが鍵を握っています。「引く」的な言葉を差しださない、とか。

ぼんやりとした答えを語っているだけですが、過剰も欠落も、いろんなテーマで浮き出てくるモチーフだと思います。

イラスト:「過剰と欠落」の文字をバックに、強すぎるリリースでグリップが地面にぶつかる女の子と、リリースしているグリップがすっぽ抜けてしまった男の子。背景に落ち葉など。

リリースでも起こること