■ 重ねていきたい愉(たの)しい気持ち
今回は「なわとびのこと」。
最近は、なわとびしたい気持ちが落ち着いています。
これを書いている週末は軒下で雨音が続いていて、ひさしぶりに縄を握らない休日を過ごしてます。ゴールデンウィークに1日おきくらいで公園に出かけて跳んでいたせいもありますけど、土日に跳べなくても、そんなにもどかしさがありません。
最近、調子がよかったせいもあるでしょうね。4重とびの成功率が上がって、跳ぶ・回すのバランス感覚もつかみながら跳べてました。跳べないときが続くと、不満とミスをうめるように縄を握りたくなるんですが、そうでないのが調子がいい証拠かもしれません。
なわとびが好きって、どういう姿なんでしょうね。
好きだから10年公園で跳んでますし、こういうブログも10年続けてます。でも、けして熱心だとは思ってません。
「お前「古着」は好きでも
「おしゃれ(ファッション)」は好きじゃねーだろ」―― 赤堀君『ビンテイジ』 第20話 時をかける少年(講談社)
このまえマンガでこのシーンを読んで、寂しさもありつつ、それ以上にうなずけるものがありました。
主人公にとっては、残酷な宣告です。「古着が好き」だけではただの趣味。夢見てるような仕事にはできない。なぜなら、古着とおしゃれが結びつかなければ、商売にならないから。
なわとびでも同じで、ただ跳ぶのが好きなだけでは、他の誰かに伝えられるものはわずかです。プロ・アマにかかわらず、わかりやすく教えたり、見て楽しめるパフォーマンスをしたりして初めて、なわとびの楽しさが伝わるし、ときに対価も生まれる。
僕も始めのころはそういう道を体験させてもらいました。気持ちがついていかずに、ただ跳ぶのが好きなだけの道に戻したからこそ、上のせりふに寂しさと納得がありました。
今回のタイトル、「愉」という漢字を使いました。
楽しみでなく愉しみ。熟語だと「愉快(ゆかい)」「愉悦(ゆえつ)」などがあります。今まで見てきたイメージだと、「個人の満足」の色合いが濃いのが「愉」ですね。それで、タイトルもこちらを選びました。
今回で 700回になるんですけど、以前使った、「1周回って半分無敵」という言い回しが浮かびます。一通り見て、知ることは、一般と自分の差を知ることです。差を知ったうえで、自分にとって楽しいことを続けていくのが「愉しみ」で、周囲と違っていても続けられる、無敵で素敵な気持ちがそこにあると思うのです。
幸いアクセス数も下がらず、Twitter も自作のリサイクルみたいに続けて、気持ちが折れて座りこまない程度に、ふわふわした心地よさが続いてます。過去の話を持ちだすと、今との違いがどこかにあって、それだけで次の話が生まれます。縄のように、同じようなテーマでも二巡、三巡と続けていけそう。なわとびはそうやってうまくなっていくものですしね。
「一人で気持ちよくなりたいだけじゃ 誰かを気持ちよくなんかできねえんだ」
上のシーンの終盤の言葉。外に向けて何かを届けたいなら、きっとそのとおりなのでしょう。僕は今、そこそこなわとびに満足できていて、あふれた楽しさは、こぼすにはもったいない一品です。そう感じたとき、人は、外に向けて届けたいと顔をあげるのかもしれません。
でも、そこまで時間を使うのは、気張りすぎな気がします。公園で跳んで、ときに学校で子どもに教えて、ブログにそっと置いておくくらいが、自分の愉しみとしてちょうどいいと思うのです。