とびまるの「なわとびのこと」

なわとびのことを書いたり描いたりするブログ。

731 夢の回廊(コリドー)

■ なぜ同じことを繰り返すのか

今回は「変化のこと」。

このブログ、同じようなことを何度も書いてます。

ここ2、3年だと、「体の支え」なんてどれだけテーマにしてきたでしょう。前回も書いてます。自分の体がブレやすいこともあって、支えの話が出てくると「またか」と思った人もいるんじゃないでしょうか。

その折々で気づいたことを散りばめているので、多少の進歩は生まれているはず ―― なんですが、似たり寄ったりに思える人には、変わらない話に見えるかもしれませんね。なわとびのイメージに重なる部分もありそうです。


エッセイでこんな話を読んだ覚えがあります。

 ―― 「同じことばかり書いている」と言われるが、読者は移り変わるものだ。新しく読みはじめた人にとっては、「同じこと」ではない。

書くことがビジネスなら、変わらないことも価値なのでしょう。読者が移り変わっても、常に誰かに読まれつづけるところに価値がある。ご新規さんが絶えないことが、強みなのです。

なわとびブログだとどうなんでしょう。「読者=なわとびしてる人」が移り変わるほどいるかどうかが大きいのかな? なわとび界のスケールの問題ですね。僕の場合、特に宣伝もしてないブログですが、たまたま検索その他で目にとめる人がどれくらいいるかは、やっぱりなわとび人口に左右されると思います。

実際に読んでくださってるかたが移り変わっているのかはわかりません。見えるのはほぼ数字だけなので……。ただ、アクセスは思ったより一定のまま続いてます。変わらない話に変わらない数字。その落ち着きがのんびりと続けられる空気を作っている気もします。


変わらないって、終わるきっかけでもありますよね。

変わらないからあきる。
変われないからあきらめる。

たまたま似た語感で並びましたが、気持ちを揺り動かすものが小さくなれば、価値も小さく見えてくるものです。物事の多くには一定のラインがあって、その数値はだいたい能力に依存しています。なわとびなら、何回跳べるか、何重とびまでできるか、が代表的でしょう。

そこに手が届く、あるいはどうしても届かないことに気づいたとき、その人の中でなわとびがいったんの終わりを迎えるのです。

僕は、どうして変わらないまま続けていられるのか……。へただから、逆にうまくなれる余地がいくつもあるのでしょう。気づけなかったことがたくさんあって、ブログで言語化できるかどうか試せる楽しみかたもある。遥かに望むものがあれば、変わらない・変われないのも捨てたものじゃないな、と思います。


 

しかも、立場、環境、条件は常に変化し、人間は成長し、歳を重ねていくのだから、同じものを受け取っても、それをどう感じるのかは、そのときどきで異なる。それを、ただの言葉だと受け止めてしまうと、「また同じこと」になるわけで、ようするに「また同じ」にしているのは、受け手自身だ、ともいえるのだ。

  ―― 森博嗣『追懐のコヨーテ The cream of notes 10』(講談社

 

外から見て変わらないように見えても、当人は小さな変化に向きあっていることは多いと思います。僕も、似た話は増えてますが、そのつど見えているものは違います。

なわとび競技には、30秒スピードや3分スピードがあります。ひたすらかけ足で跳びつづける種目です。右足カウントで 30秒 100回(実質 200回)跳ぶ人が何人も出る高速の祭典のような種目なんですが、ミスしないために姿勢も速度も維持して変わらないように見えて、小さな変化に次々と対応しないと続きません。

でも、人によっては同じことを繰り返しているだけにしか見えないかもしれない。ひたすら走るマラソンだって、位置は変わります。なわとびのスピードや回数種目はそれすらない。変化が見えるのは残り時間と積みあげた回数。

競技として成立していても、鑑賞に耐えうるものなのか?

変化という視点で考えると、いろいろ見えてきますね。言えるのは、変わらないように見えるものに変化を見つけられれば、きっと楽しめるだろう、ということです。

イラスト:宇宙のような背景に、光の回廊がらせんを描いている。いろんな子たちがいろんな技を跳んでいる。インバースクルーガー、ボディラップ、カブースクロス、ループリリース(回廊に引っかかってる)などなど。

回廊(コリドー)をぬけて