とびまるの「なわとびのこと」

なわとびのことを書いたり描いたりするブログ。

770 理想形偽装系

■ 縄とつながりながら理想に近づく

今回は「理想のこと」。

なぜ人は技に挑むのか。

登山や探検などの冒険を志す者は、次々とより困難な課題を自分に課す。大きな対象に挑むことで、自分の生を証明したいと考えるのが、冒険者の生き方だからだ。

  ―― 登山家・服部文祥さん(書評:角幡唯介『書くことの不純』、中日新聞 2024.3.3)


服部文祥さんの小説や動画はたまに目にしていたので、新聞でこの書評を読んだとき、ずいぶんと納得した覚えがあります。挑戦者のイメージはぼんやりと持っていましたが、実際に山や秘境に踏みいっている人の言葉にふれて、輪郭がはっきりした感じがしました。

「自分の生を証明したい」 ―― 大げさに聞こえますが、この強い響きが、空中技への挑戦にもあるのかもしれません。


とはいえ、理想を叶(かな)えられる人はどれくらいでしょう?

なわとびだと、できているつもりでも崩れた仕上がりになっていることが多々あります。時には事故につながるほどです。世界的な競技者ですら、高難易度の技はぎりぎりの着地になっているのをよく見ます。上位入賞者だとそれでも切れのある鮮やかさのほうが印象に残りますが、すこし順位の落ちてきた動画になると、苦しみながら縄を通した感が強い。

理想と実力。

そのもどかしさに痛みを覚えるのは、僕も公園で無理をしているからでしょう。ただの観客なら、外野から実力不足だとそっと思うところを、自分自身に覚えがあるから見ていて苦しい。理想が遠いことを、突きつけられるのです。


挑戦するだけなら、そこには逃げる・引くといった選択肢もあります。

これが未踏峰のルートだったり、未発見の秘境だったりすると、どこかで生還して世に伝えたい衝動が生まれます。普通の人でも、旅行が楽しむだけでなくて、人に話したくなりがちなのと同じ。自分を見せたくなる、ということです。

なわとびの技もまた、跳べた自分を見せたい気持ちを完全には切り離せません。たとえ自己満足で続けている人でも、自分自身が見せたい相手のはず。

上の書評でも、探検記は生還したから書けるのであって、「行為の後に原稿を書くという制約」があったとしたら、原稿を意識して探検のありかたはゆがみかねないと書かれています。探検記のために危険に一歩踏みこむ思考は、無理をしてでも技を通すなわとび人の気の逸(はや)りに似ています。


完璧な理想でなく、そこに近づく過程が大事なのかな、と思っています。

もちろん、理想にたどりつけるのが一番です。でも、それでは、ままならない人は救われない。たまに書いてることですが、目標や目的ばかりがふくらみすぎて、手立てややりかたを見失うのは苦しい状態です。

結局跳べなくて、理想のランクは下がったとしても、そこまでの工夫は他の技にもいかせるし、自分の跳べる範囲も知ることができる。そこで初めて、自分のできる演技が明らかになってくるかもしれない。

冒険者や登山家には「40代前半で遭難死する者が多い」と書かれていました。

角幡は、意識が求めるレベルと身体活動のレベルの間に、40代前半でギャップが生じ、そこが生き残りのボーダーラインになるからだ、と分析する。


……年代や経験が見事に自分とかぶっています。僕はこの段階で4重とびが初めて跳べたんですけど、スポーツ選手は本来この年代が最後のピークですよね。このあたりで適度を見つけないと、いつまでも理想を偽装しているだけになってしまいそうです。

対象の山を征服するのでなく。その山の循環に入り込むように寄り添うこと。


こんなアプローチを考えながら、跳んでいきたいですね。そのうち読みたい1冊ができました。

イラスト:遠くそびえ立つ山と、手前で背中を見せて地面を踏みしめて縄を振る少年。右足は低い岩の上にある。背景の空に「理想形」「偽装系」の文字が散っている。理想形は輪郭あり。偽装系は斜線のみ。文字のあいだに跳んでいる人のシルエット。

遥かなる未跳峰

「人はなぜ山を登るのか」の画像を見つつ……。