今回は「ロスのこと」。
夏に1つ、こんな話を書きました。
職員室の席が隣だった先生の「孫話」を思いだして始まった空想でした。
実は、そこで書いた「なわとびでのロス」のイメージが、ずっと消えないままでした。すこしなわとびが上手になって満足したあとに「置き去りにされた自分」のイメージ。うまくいかなかった世界線の自分は …… みたいな話ですが、うずくまるシルエットが、自分の中に消えずに残っていたのです。
ようやくそこに手を伸ばせた。そんな話です。
あれから、きっかけになった『HUGっと!プリキュア』を全話見ました。
展開はすでに知っていましたが、先を知っているからこそ心にくる場面が多くて、抜けたページを戻しながら読み進めているような気持ちで見てました。そんな「抜けたページ」のクライマックスで――。
「わたしには …… 何もないと思ってた。
なんで、プリキュアになれたんだろう、って」―― 『HUGっと!プリキュア』第48話「なんでもできる!なんでもなれる!フレフレわたし!」
たった1人になって戦いながら、変身が解けて倒れた主人公のはな。それでも立ちあがりながら、「けど、違った」から続くせりふを言いきったあと、時間を止められたはずの世界で、はなのお母さんの目から涙が流れるシーンに、何か感じるものがありました。
『はぐプリ』のテーマの1つは育児で、赤ん坊のはぐたんとはなたちの物語に「親と子」のようなスポットが当てられることが多いのですが、はなもまた、まだ中学2年生の「子ども」です。はぐたんを守って救うのと同じで、逆にママに守られて、救われることもある。「親子」の物語が、ここにもあったということです。
前の学校でつらい思いをしたとき。プリキュアに変身できなくなったとき。いつもはなのママは、はなを抱きしめて、受け入れてくれました。敵に未来を揺さぶられたときにも、遠くからママが見つめているシーンがありました。そんな親子の物語がようやく未来へ針を進めた ―― 娘が壁を乗りこえたことを知った母が、時間を止められた世界で流した涙には、動きだした時間がつまっていたのだと思います。
僕が「跳べない自分」を救いたかった気持ちには、なかったものを感じました。
母の涙と言えば、別の話では、娘が新しい道を見つけたことで、それこそロスのような気持ちに打ちひしがれた母親が描かれていました。その心を敵に利用されたとき、仲間の1人が母の心に飛びこんで、抱きしめたシーン。
逆に、失望のあまり怪物化した敵の心へ飛びこんだ仲間もいました。そのとき、目の前にいるのが敵であっても、プリキュアの1人はこう言っていました。
「私は、嘘というものがよく分かりません。
ただ分かるのは、あなたは、そんなに苦しむほどに人を愛した、ということです。
そこに嘘はないはずです!」―― 『HUGっと!プリキュア』第22話「ふたりの愛の歌!届け!ツインラブギター!」
どのシーンでも重なるのは、うずくまるシルエット。『はぐプリ』ではそこに抱きしめる母や仲間がいました。じゃあ、そこにある「愛」が、置き去りにされた自分を見ていた僕にはあったのか? …… きざな言いかたかもしれませんが、素直に浮かんだのは、そんな問いかけでした。
そこで初めて、僕は、置き去りにされた「できないだれか」を、「かわいそうな存在」として見ていたのだと気づきました。なんとかしてあげたい ―― たしかにその気持ちは苦しむほどだったし、愛情でもあったのかもしれません。でも、その裏側にあったのは、実は、憐(あわ)れみだったのではないか。
同情されているだけだから、そのシルエットは立ちあがれなかったのではないか――。
跳べなかった自分は苦しかった。
ブログでも書いてきたそういう気持ちが、うずくまるシルエットを作りあげ、苦しさをわかってほしかった気持ちが、置き去りというイメージに染めあげた。そんな気がします。
できた・できないで線引きするだけでは、できた側の自分は、ただの上から目線です。もちろん、完全に同情を排したような気持ちにはなれません。やっぱり、どこかに助けて「あげたい」気持ちはあります。仮に愛を持ってしても、過去の自分にアドバイスが届かないとしても、そのシルエットにどう向きあうのか。
「けど、違った。
超イケてる大人なお姉さん。わたしの、なりたいわたし。
それはだれでもない、自分で決めることだったんだな、って」
もし「プリキュアになれる」ことが、なわとびで「跳びたい自分になれる」のと同じなら、あのシルエットにも跳びたいと決めた瞬間があったはずです。その気持ちに呼びかけて、手を伸ばすことこそ、「跳ばせてあげられる自分になれる」だったのかもしれません。
置き去りのイメージのきっかけが『はぐプリ』なら、引き返して手を伸ばすきっかけも『はぐプリ』でした。出会えてよかった。今、やっとそう思えました。