■ かなわなかった願いに魔法を
今回も「魔法のこと」。
魔法のお話、その2です。
『魔法つかいプリキュア!』から、子どもをモチーフにしたあこがれの話を書いた前回。
でも、魔法は必ずしも光ばかりではありません。『まほプリ』は、そこも素直に描いていたと思います。
もし、こう言われたらどう思うでしょうか。
「魔法つかいを見たの!」
勝木さんという同級生の女の子がいました。
みらいたち魔法つかいをたびたび目撃してしまう子です。でも、魔法は見つかってはいけないきまり。なので、勝木さんはどれだけ目撃しても(ストーリー的に)ごまかされつづける、道化役みたいな子でした。
そんな勝木さんがクローズアップされる第34話は、みらいの友だち・まゆみの恋バナ回でした。告白後、「ドキドキしても、意味なかったな……」と震えを抑えるようにつぶやくまゆみに、「そんなことない!」と叫ぶように言ったのは勝木さんでした。
「すごく好きな人ができて、そのためにがんばったんだよ! それを意味がなかったなんて、言わないで!」
そう言って大泣きするのです。当事者のまゆみのほうが、なぐさめるくらいに……。
きっと、勝木さんは、涙まじりの言葉に自分を重ねていたのでしょう。魔法つかいを見たことを、だれにも信じてもらえなかった自分。それでも自分を信じて魔法つかいを探しつづける毎日。もし、そんな自分を「意味がなかった」なんて言う日が来たら――。
このすこしざわつく感覚、わかる人も多いのではないでしょうか。
理解されるかされないかの瀬戸際に立たされるとき。
僕のなわとびもそうです。楽しい趣味でも、今は演技や大会を目指しているわけではありません。公園で、1人で、いろんななわとびをしている人。でも、ひたすら変わったことをしているだけの人でもある。
目的が見えない姿は、ときに意味を問われるものです。楽しさや、それこそ魔法のような技を体現できる瞬間をめざして続けていられますが、それってどこまで意味があるものなのかと、頭をよぎることはあります。だから、勝木さんが叫んだ言葉に、自分のなわとびも重ねて聞こえた気がしました。
それはもう、魔法が得体(えたい)のしれないものや、子どもじみた空想に受けとられるのと同じなのです。だれだってあこがれたことがあるはずなのに、現実というほうきですみっこへ掃(は)きだされてしまう。『まほプリ』は、ナシマホウ界(人間界)側の「魔法」もあえて描いたように見えました。
―― 魔法つかいを見たの!
魔法はナシマホウ界では絵空ごと。魔法つかいに出会えたみらいが光だとしたら、自分を信じることで精いっぱいだった勝木さんは、この物語の陰(かげ)だったと思うのです。
それでも、僕はなわとびをやめてはいません。
それは、子どもっぽくても、なわとびにずっとあこがれがあるから。かつて見た魔法のような瞬間を、今も願っていられるからです。
『まほプリ』の第45話で忘れらないシーンがあって、初期の敵だったバッティが、自分がよりどころにしていた魔法そのものを新たな敵に嘲(あざ)笑われて、戦いながらこう叫んだのです。
「我らの生き様、茶番などと言わせておくものかっ!!」
意味がないなんて言わせない ―― 勝木さんの言葉と重なる叫びに聞こえました。熱すぎて、これって基本は女の子向けの番組だよね? とふと思う。しかも、これを見たプリキュアの1人が、思いのこもった魔法は大きな力なのだと解説のように言いきる。この物語の本質の1つを、主人公側ではないバッティが体現してしまうのです。
でも、そこには、それぞれの思いで動く人たちとその力を、素直に認める空気がありました。そして、まゆみという初めて自分を理解してくれる友だちができた勝木さんは、クリスマスの夜――。
気持ちを支えてくれる人がどこかにいる。
いっしょに単縄を跳んでくれた友だちもそうでした。交流から離れても単縄を楽しんでいる自分もそう。知らずにだれかからかけられているのが、魔法なのです。
『まほプリ』の第49話で、みらいが夜の並木道で「会いたいな……」と涙を伝わせたあとのできごとは、おばあちゃんの言葉が大きかったとは思います。でも、その日、勝木さんが「(魔法つかいに)もう一度会いたいなあ……」と言っていて、みらいはそれをそばで聞いてるんですよね。
ここからは想像です。
もし、勝木さんのその言葉が、みらいの「会いたい」につながっていたなら、勝木さんは知らずにみらいに魔法をかけていたんじゃないか。魔法つかいに会いたかった女の子は、そのとき、魔法つかいその人になっていたんじゃないか――。
そんな報われかたも、あっていいと思うんです。
前回と今回のタイトルは、以前ふれた児童書『魔法使いのいた場所』の章題の1つでした。
長い2回でしたが、お付き合いありがとうございました。
キュアップ・ラパパ! あなたも魔法つかいになれますように。