とびまるの「なわとびのこと」

なわとびのことを書いたり描いたりするブログ。

714 器械運動のこれから

■ 個人の生きかたにそっていく?

今回は「器械運動のこと」。

体育の器械運動は、やがて選択制になる。

どこかで読んだ話です。どなたかのエッセイだったでしょうか。人によっては危険だから、必修でやらせることはないし、そういう方向に進んでいくだろう、と推測で語られていたように思います。

うなずける話でした。自分自身、器械運動が苦手だったのもありますが、人が跳び箱で骨折する瞬間を見たのが大きいです。


小学生のころでした。

何の技だったか覚えていません。その子が横に転げ落ちて、うずくまって腕を抱えていた光景が今でも記憶の中にあります。骨折しやすい子でした。そのせいで、「またあいつ、骨、折ったんだってよ」と一部の子がバカにしていたことすら忘れられずにいます。

失敗が弱いことにされ、軽薄な悪意につままれる、そんな時代でした。台上前転どころか、開脚前転も後転もきれいにできなかった僕は、とにかくそんな視線がイヤで、かといって教えてもらっても思うように体が動かず、苦手意識ばかり先立ってました……。

器械運動は苦手な子にとっては、心も体も苦痛な時間です。学習指導要領でも、「「できる」,「できない」がはっきりした運動」と書かれていて、もっとサポートがあれば気持ちも動きもすこしは軽くなるんでしょうけど、教員1人で30人近くを見ている状況では、限りがあります。全身運動を養う機会のはずが、文字どおりの空回りだったり、ときに危険だったりするのです。


なわとびするようになってから、たまに感じますね。

まっすぐ回せたと思った縄がそれる、体をかがめてもねじれる ―― 昔、マットや跳び箱で動きが斜めになった記憶と同じです。回ったり、跳んだりしたあとで、なぜか進行方向より横に自分がいるのです。

こうして思いかえすと、体がアンバランスだったのは子どものころからだったのかもしれません。単縄でドンキーという技があって、いったん逆立ちして戻りながら縄を通すんですが、右に倒れることは何度もありました。変わってない。変われなかった体を使って今も跳んでます。

なわとびで「まっすぐ」を生みだせないのは大きな弱点です。跳ぶときのブレが抵抗になるし、脚の下に手を持っていく技は器械運動的な体の支えややわらかさがないと、縄のブレにもつながります。体になわとびの基本がある、と言ってもいい。

器械運動の経験がある人は、なわとびでも「使える」シーンが何度もあったんじゃないでしょうか。逆に、苦手意識がなわとびにも及ぶことに気づいて、縄をたたんだ人もいるのかもしれません。


個別の指導という言葉は広がっています。

冒頭に書いた「そういう方向に進んでいく」も、社会が個人の生きかたにシフトしていく流れと重ねたときにもうなずける話です。そう考えると、学校の体育で器械運動を続けるなら、個別の支援ができるシステムが必要ですね。算数の支援とは違って、危険を避けるための支援でもあります。

そこまでお金を回してもらえるでしょうか……。「体育のケガくらい当然だ」と考える人が権力者なら、組体操のような大事故でも起こらないとムリでしょう。校内対応にしても、水泳のように監視に人を割(さ)かれると、また人手が減る。

ちょっと思ったのは、たとえば、なわとび講師を呼ぶお金があるなら、器械運動の講師のほうが必要性は高いんじゃないかということ。危険度を見るだけなら、そういう選択もありえるでしょう。

ただ、そうやって危険、危険でなんでも優先順位を上げてしまったら、なわとびに限らず、観劇会など人を呼ぶ事業は目減りしていきます。(もともと目的は違いますけど) こんなとき、器械運動ってそこまで必要なのか、なくてはならないものなのか、と土台を見直す空気が見える気もします。

それなら縮小・選択でいいのでは? と変わっていく流れは、ゆっくりと動きつつあるのかもしれません。

イラスト:体育館。跳び箱を跳びこえる男の子を、ダブルダッチの縄で迎える女の子と男の子。向こうでなわとびしている子もいる。教科書のように「あたらしい」「器械運動」「5・6年?」と丸囲みでレタリング。

ちょっとだけ教科書風

ダブルダッチにトビバコという技があったな …… と思って描いた1枚。本当はターナー(回し手)の後ろから馬とびのように跳んで縄に入ります。

こんなふうに動けたらいいな、をかなえるのが器械運動だし、なわとび・単縄もそうだとは思うんですけどね。