■ 不ぞろいな縄をどう見るか
今回は「体育のこと」。
3月の授業ももうすぐ終わります。
この時期、いつのまにか体育の時間になわとびを見なくなったなあ …… と毎年思います。授業1時間ずっとなわとび、はないにしても、準備運動の延長で授業の最初だけなわとび、という光景もしだいに消えてゆく。なわとび好きとしては「季節の変わり目」のような哀愁を感じる時期です。
―― 先生たちは、どこでなわとびに見切りをつけるのかな。
今年は、こんな言い回しが浮かびました。たいていは、「なわとび大会」的な時間が終わると別の運動に変わる印象があります。ただ、「見切り」という言葉が浮かんだせいか、なわとびを終わらせたい先生がいるとしたら …… と考えたのが、タイトルの「準備が面倒?」です。
なわとびのやっかいなところ。
縄が切れる。縄がねじれる。結んだ縄がほどけない。長さ調節ができてない。そして、忘れる子がいる。
回しかた・跳びかたの指導以前に、こういう問題がしょっちゅう起こります。ほとんどもぐらたたきで、収まることを知りません。見てのとおり、これらは準備段階の問題で、長さ調節はまだマシとして、他は跳ぶことにすら行きつかない状態です。しかも、授業の途中でもまた起こる。限られた授業時間を削ってくる小さなトラブルです。
これって、なわとびが「自分で持ってくる道具」を使う授業なのが大きいと思います。
体育の他の運動だと、ボールにしても、マットにしても、用具が学校で用意されていることが大半です。そういう意味で、縄という準備用具は、なわとび特有と言えるでしょう。
用意のいい先生は、なるべく事前に、上で書いた問題を避けられるようにしています。
僕が単縄を知るきっかけになった先生の教室は、当時(15年も前ですが)、縄は結ばずに教室に渡したロープに吊るされていました。結ぶ・ほどく苦労もないし、吊るして縄が伸びるのでねじれも少なくなります。とにかく工夫を続けるかただったので、なるほどと思いました。「再会」した今ももちろん、工夫の人です。
ただ、問題は減らせるだけで、ゼロになるわけではなく――。
「自分で持ってくる = 環境がバラバラ」なのです。
鍵盤ハーモニカやリコーダー、絵の具や習字セットのように、ある程度「整った」ものではなく、準備してくれる保護者しだいな部分は大きいです。100均の縄から、僕が跳んでも手ごたえのあるスポーツメーカー製まで、縄そのものの品質も違えば、どう保管していたのかわからない奇怪なねじれの縄から、きれいにUの字を描く縄まで、メンテナンスぐあいにも違いがあります。
そろわないというより、一部の子の用具にほぼ問題が出るのがなわとびなのだと思います。
そのイメージに引っかかって対処が面倒だと思ってしまえば、なわとびは必要最小限な時間で見切りをつけてしまう先生もいるでしょう。コロナのあいだ、集団とびである長縄を避けて短縄だけにしていた学校だと、縄トラブルに立ち会う回数も多かったんじゃないでしょうか。
わざわざ澱(よど)んだところをすくいとってる感じもしますが、体育で「縄の季節」が終わるタイミングには、こういう背景もあるのかもしれません。縄にまつわる小さなストーリーとして見ると、おもしろいとは思うんですけどね。そこから、何か引きだせそうな空気も感じられる一幕でもあります。
ちなみに、学校保管の短縄を買うまでは、忘れた子対応は半分僕の係でした……。