とびまるの「なわとびのこと」

なわとびのことを書いたり描いたりするブログ。

689 ミルナの箱庭

■ 見つめる先は、その人だけの場所

今回は「視線のこと」。

公園で跳んでいると感じる視線。

始めに言っておくと、必ずしも「いや」ではありません。大人の男性がひとりで(しかも単縄のようにちょっと目立つ動きで)跳んでいれば、目にとまるだろうし、周囲から浮いて見えることもあるだろうとは思います。でも、自分の中に、人に見せたい気持ちも少なからずあって、公園の広場は都合のいい「舞台」でもあります。

一方で、人目があるから練習できない、なわとびしたいのに場所がない、と雨降り続きの窓の外をながめるようにため息をついている人もいるでしょう。

そんな、いろんな人の視線をすり抜けた先にあるのは、「自分だけの場所」だと思うのです。


きっかけは百合(ゆり)でした。

先日、指導者の話を書いた 685 シャッター で青崎有吾さんの短編集から鉄道事故の話を出しました。同じ短編集に、「恋澤姉妹」という作品があります。初出は、女性同士の恋愛・「百合」をテーマにしたアンソロジーです。

最初は何が描かれているのかわかりませんでした。殺し屋の女性。伝説の最強の姉妹。追うごとに語られる逸話。百合の香りが漂(ただよ)ってきません。でも、やがて「見えて」くるのです。伝説に近づこうとする者たちと、踏みいられることを望まない姉妹との距離感が、百合の置かれた景色なのだと。

 しかし彼女たちは物言わぬ花ではない。わたしたちがやっていることは愚かで醜くて矛盾に満ちていて、だからわたしは、いまのこの状況が理不尽だとは思っていない。わたしたちの抱く興味が正当なように、彼女たちの抱く殺意も正当なものだ。観測には代償と、覚悟がいる。

  ―― 青崎有吾「恋澤姉妹」(『11文字の檻』所収)(東京創元社


人に見られることは、外からの興味を浴びせられること。では、そのとき、内側にあるものは? 避けるように物陰に隠れても、いいところだけポーズを決めても、心を許した姿以外は見ないでほしいと返す視線は同じで、そこには自分だけの箱庭が築かれていると思うのです。


練習するなら室内がいいという声はたぶん多い。

人目を気にせず跳べるから。視線には、何が含まれているかわかりません。わからないから不安な想像も生まれるし、それは自分の「好き」に没頭する気持ちを陰らせたり、削ってしまうかもしれない。

天候に左右されない環境やフロアのバウンド感が外よりも有利なのもメリットでしょう。それもまた、心地よい環境で自分を囲えるから、練習場所といういっときの箱庭が生まれていると言えます。

いつか、手をつないで歩く女子高生を見ました。

はしゃいでいる様子には見えず、手を合わせていられる時間を大切に離さないような横顔と後ろ姿に、すこし胸が締めつけられたのを覚えています。勝手にそう感じただけと言われればそれだけのことでしょう。僕には、2人が幸せに守っているものがあるように見えて、そっと見届けることすら場違いな気がしました。

箱庭に踏みいってはいけない。

大切にしたいものは、箱庭の中にあって、それは、2人だけの世界でも、なわとび好きが跳びたい場所でも、同じだと思うのです。

イラスト:西洋建築や小さな街並みが混じりあったような箱庭で、2人の少女が1本の縄で跳んでいる。2人の、グリップを握らないほうの手は、指を重ねられている。手前に2本の柱。バッテンを描くように2本の縄が結びつけられ、柱と縄でできた三角形の中に、少女たちの瞳がアップになって、こちらを見ている。

Where Angel Fear To Tread

公園の広場で10年近く跳んできました。

目につく環境で、強く踏みこんでこられることはありませんでした。公園でなんてとても跳べない、と言う人もいるでしょう。自分は自分、人は人。そう思えるから続けてこられました。冒頭に書いたように、ときに人に見せてみたいから、という気持ちもあります。

公園で遊ぶ子、道行く人、近所のかた …… どう受け止められて、その視線にどういう思いがこもっているかはほとんど知りません。「なわとびの人」として、遠巻きにでも同じ公園にいさせてもらえることを、ありがたいと思ってます。