■ マイナーを希(ねが)う
今回は「マイノリティのこと」。
―― 自分だけのマイノリティを押しつけられるのが不愉快。
学校でいろんな子に関わることが多いのもあって、障害や性的マイノリティ関係の記事を見かけると読みます。ネットニュースのコメント欄で以前見かけたのが、上の言葉でした。たしか、「マイノリティという言葉が広がりすぎて、なんでも少数派の苦しみとして訴える人が増えてきてないか?」というコメントだったと思います。
自分だけのマイノリティ。
きれいに切り取った言葉だな、と素直に思ったのを覚えています。訴えたい人の思いと、いちいち気にしていられないという皮肉が同居した言葉。思うところはありつつも、言葉の切れ味をまず見てしまう傾向が自分にはあるので、記憶に残りました。
マイナーな話にどれくらい価値があるのか?
ブログでたまに思うことです。限られた話(体のクセなど)を何度も書いてきて、どれくらいの人に興味を持ってもらえるのか、今でも読みきれないまま続けています。
最初はもっと跳べるようになって、気づいたコツをどんどんブログに載せるのが理想でした。でも、人並みすら遠い高みで、できない部分をクローズアップする話を続けてきたと思います。自分だけのマイノリティに近いですよね。
それでもいいかと思って続けてきたのは、どこかで誰かに刺さればいい、くらいの気持ちで向きあえたからでしょう。競技やイベントにそこまで足が向かなかった自分には、必要以上に有名になりたい気持ちもなくて、ブログのアクセスだってゼロでなければいいと思っているくらいです。
韓国には恨(ハン)という概念がある。他を嫉(そね)むのではなく、希(ねが)うものに届かぬことを嘆く想いらしい。
―― 有栖川有栖『妃(きさき)は船を沈める 新装版』(光文社)
このまえミステリを読んでいたら目に入った文です。跳びたいのに跳べない(回せない)のは自分にとってコンプレックスでしたが、できる人たちに嫉妬(しっと)することはほとんどありませんでした。それより、できない自分自身に目が向いて、跳べるにはどうしたらいいのか、ブログにぶつけてきた ―― そんな気もします。
ネットは雑音にあふれています。
みんなが自分の言いたいことを載せられるようになって20年以上たちました。ブログを始めたころにはSNSもたくさんあって、なわとび(スポーツとしての単縄)のようなマイナーな分野で、さらに特定の人にしか届かないような話でも、居場所は作れるようになりました。検索する言葉によっては、自分のブログが出てくることも珍しくありません。
ただ、書いている内容が、検索で求めていたものに合っているかはわかりません。肩すかしで、検索結果に余計な行を増やしているだけの可能性もあります。テーマによっては、なわとびの世界に水を差しかねない話も書いてますし。
多様性を持ちだすとわがままでしょうか。
多くの人が発信できる世の中になって、昔は聞き届けてもらえなかった障害や差別が拾われるようにもなりました。その声が大きくになるにつれ、世の中が息苦しくなったともよく聞きます。ただ、これもマイノリティ関係のある記事でコメンテーターが書いていたのが記憶に残っていて、
―― 本来社会は息苦しいものだったと思う。普通の人たちが遠ざけてきたものが、無視できないところまで戻ってきた今が、ようやく普通と言えるのではないか。
発達障害は増えたのではなく探したからたくさん見つかった、という話と似ていますね。いろんな声は普通に過ごしていても目に入り、耳に届くのだと受けいれていくのが今の過ごしかたかな …… と思います。
ただ、言いたいことをなんでもぶちまけることまでいいとは思えません。
「 …… あなた自身お認めになった心の歪みは、それだけでは個性にすぎないけれど、時に周囲の人間の心を決定的に歪ませるのかもしれません」
上のミステリである人物がぶつけられた言葉です。個性と認めつつ、霧が広がるように他の誰かに手を伸ばすのなら、それはマイノリティでは済まされないのだと言ってるようにも聞こえました。
ブログを続けていく中で、1割の誰かに届きそうならマイナーなことでも書きたいです。その他9割の誰かには ―― 興味のない話に当たることもある、と受けいれてもらえるとありがたいなと思います。