■ 何者にもなれない痛みに
今回は「ヒーローのこと」。
なわとびシーズンは『プリキュア』の終わる時期。
そんなことに気づいてから、これで3年目。『ひろがるスカイ!プリキュア』を最終回まで見ました。「Hero Girl」にもかけた今作、ヒーローがテーマでした。
僕にとって、ヒーローが好きだったのは小さなころだけで、あとは主人公のドラマとして遠目に見ていた気がします。自分はヒーローの器ではない、と気づいていくからでしょう。なわとびも似ていて、自在に人前で跳んでみせる姿にあこがれて始めてはみたけれど難しくて、ヒーローとは、自分からだんだんと遠い存在になっていくものでした。
ただ、ヒーローにはなれなくても、その姿から「かけら」だけでも受けとることはできました。
これでいくらか気持ちをしてはまとまってるんですが、最後まで見て、もうすこし……。
ヒーローって、その向こうに誰かがいるんですよね。
自分のあこがれだった人、自分を支えてくれた人。力になってくれた人がいるから、ヒーローはヒーローへと羽ばたくことができた。『ひろプリ』もそうです。その一方で、正義と言えば悪もまた「誰か」の1人です。
敵に対して、どう向きあうか。
変身バトルもので、ヒーローがテーマなこともあって、今回はシリアスな場面も多い作品でした。ひょっとしたら、「怖いから見ない」と言う子どももいたんじゃないでしょうか。たとえば、身をすくませるくらいの声色で、主人公側が言葉を放ったシーンもありました。そんな言葉を浴びせられ、前半で退場したバッタモンダーの行く末が印象的でした。
僕は、敵でも何か救いがあってほしいし、敵側のドラマも見たいと思ってプリキュアシリーズを見てます。ただ、あくまで子どもが見たいのは主人公側で、敵としての演出はあっても、敵のドラマにレンズが向けられることはあまりありません。
でも、バッタモンダーはちょっと違いました。
たぶん、彼は、敵味方通じて、一番「弱い」キャラだったと思うんです。力・強さが今回の敵側の論理だったから、なおさらでしょう。苦しんでゆがんで、でも敵側だから勝つこともできずに退場していったバッタモンダー。このあたり、実績がなければ価値もないとされがちな風潮にすごく重なるものがありました。
そんな彼が終盤の日常パートで再登場して、複数話に渡って悩み苦しむ。まるで、鉛筆画で光を表現するために影を深く描くような姿を見ているようでした。決して格好のいいお話ではありません。さらに追いつめられ、悪にすらなれない自分に行き場を失って、彼はプリキュアの1人にまたひどいことをしてしまう。
それでもその子は、苦しんでいる彼を救ってあげたいと言いました。お互い感じている痛みが、まったく別のものとは思えないからだと。
僕は、どちらの側にも自分がいると思いました。なわとびで言うなら、うまくいかずにつぶれていくバッタモンダーの姿は、10年たっても体のクセや協応に合わせられず、跳べない自分と同じです(苦しみを他者に回そうとまでは思いませんが)。一方で、跳べずに苦しむ子どもの姿は他人事には思えなくて救いたい。
プリキュアには決まりごとがいくつかあるそうです。その1つが「プリキュアの顔やおなかを攻撃させないこと」。主人公たち相手ではなかったとはいえ、バッタモンダーが自分の壁を破ったとき、使えた手段はそんな暴力でしかありませんでした。その瞬間の彼の表情は、何も満足したようには見えなかった。そんなやるせなさの中に、ひとかけらの勇気だけが見えて、無性に泣けて仕方なかったのを覚えています。
「力がすべてではないのだとしたら、何を信じればいい」
終盤のこの言葉、答えがすなわちヒーロー像のような問いかけでした。 curezさんが感想で、プリキュアのこれまでと合わせて力の否定について書かれています。
主人公のソラが答えた言葉とは別に、僕はこう思ってます。
痛みに寄りそえるのがヒーロー。
作中に出てきたヒーロー像とかぶってる気もしますが、あこがれも、支えも、「そうはなれない自分」がいるから生まれるものです。そしてそこに、大きさや色合いを変えて痛みがある。力や強さを見せつけられたとき、自分では届かないと思う気持ちがどこかで痛みになるのです。
今の世の中は、逆にそういう痛みを利用して、とにかく人より上の側にいられるテクニックにこそ価値があるような雰囲気があります。昔なら、たとえば一部の雑誌やセミナーにしかなかったような言葉が、大手のニュースサイトでいくらでもあふれている。正直苦しいし、劣等感くらい静かに見守ってあげたらどうなのかと思うことが多いです。それは、自分も、なわとびのような「できない自分」という劣等感や痛みが刺さったままだからでしょう。
バッタモンダーのエピソードが涙腺に響いたのは、ただ救うだけでなくて、救われる側の痛みをしっかり描いてくれた、敵側であっても軽めに流さないでくれた、そんな物語自体への感謝でもあったと思います。
なわとびとは、すこし離れちゃいましたね。
僕のなわとびは、コンプレックスとの戦いでもありました。今でも続いてます。ソラちゃんが上の問いかけに答えた話の次の日、学校のクラブの最終日でした。グリコフリーズとか3重とびとか、クラブの子たちが思い思いに挑戦してるのを見てるうちに、「この子たちに救われてるんだな」と、ふと思いました。
本当は苦手でも、「なわとび先生」の役を崩さず、降りずにいるのは、子どもが僕を信じていっしょに跳んでくれるからです。それが、僕の中では、痛みに寄りそってもらえる形にもなっています。
うまく跳べないきしみは消えません。でも、その痛みは、子どもたちがやわらげてくれている。へたなりに、ひとりきりでも、普通の人よりはるかに跳んできた経験を子どもが認めてくれます。ヒーローと呼べる姿ではないのかもしれませんが、なわとび先生であることが子どもに「やってみよう」と思わせ、そんな子どもの姿に僕は勇気づけられている。
お互いに救われているのが、平和なんだろうな …… と思います。
『ひろがるスカイ!プリキュア』、今年もいいお話でした。
みんな、どこかに痛みもあったと思います。ずっと幼児として守られる側だったエルちゃんが持っていた痛み。そんなプリンセスのナイトだったツバサくんが、「少年」から「大人」へのあこがれをあげはさんに届けたシーンも、そういう気持ちで見てました。少年から抜けだしたい痛み。そばにいた子どもが成長してしまう痛み。お互いがお互いを救いながら、切なくも力強く羽ばたく姿がそこにはありました。
そして、未熟である痛みにくじけながら走りつづけたソラちゃんを、ずっとヒーローと信じていたましろちゃん。この物語が「普通の女の子」だった彼女の物語でもあったと気づいたとき、「何者にもなれない」痛みを今回のプリキュアはずっと語っていたのではないかと思いました。
「ヒーローの出番」はいったん幕を閉じましたが、みんなの姿は抜けるような空とともに、心に残っています。
進む速さは違っても、これからも僕なりになわとびで伝えていけるものを残していきたいですね。ソラちゃんのあこがれの人が、伝えてくれたように。
―― 立ち止まるな、ヒーローガール!