■ できないから気づく近さ
今回は「障害のこと」。
運動で、体のクセは小さな障害だと思うのです。
障害というと言葉は強いんですが、実際それでうまくいかない中で10年以上たちました。縄がそれる、体が傾く、ひざが開く …… 手と足とバランスの統合運動でもあるなわとびでは、どれも失敗につながるきっかけです。
直そうにも、なぜか背中の肉は右側が大きいし、右ひざから下も曲がっています。これくらいで障害と言っていたら世の中障害者だらけになるレベルでしょう。それでも、なわとびを続けてきて、これはハンデ(ハンディキャップ)だなとずっと思ってきました。
だから書きつづけてきた一面もあります。
最初はね、こんな違和感はなかったんですよ。子どものころすこしだけなわとびが得意だったと言っても、単縄を始めた時点で30代だったし、何より経験が浅いからうまくいかないのだと思ってました。そのうち上達して、得た気づきをブログでどんどんヒントとして書けるのだと思っていた。
ところが、気づいたのは自分の体のブレでした。
そこからのミスが多いことにも気づきました。ミスがどういう状況で起こっているのか探るのも嫌いじゃなかったのでいくつも書きましたが、あるときさらに気づくんですよね。これ、誰のための記録なんだろうって。
それでも書きつづけたのは、僕のように「できないけど跳びたい」人がどこかにいるだろう ―― という、願いにも似た気持ちがあるからでした。この、何かを求めて視線を上げるような姿に、障害者の声と重なるものがある気がするのです。
できない自分を知ったとき、初めて気づける気持ちがあるのでしょう。
体のクセだけでなく、こだわりの強さもあれば、年齢や体の衰えのように無視できずに進んでいく要素もある。その人にとってできない部分を障害と呼べるなら、どんな向きあいかたができるのか? 僕にとってなわとびはそういう一面もありました。
多くの人にとって、不要なものかもしれません。
どんな人でも小さなクセはあるでしょうから、自分の問題として置きかえれば改善になる部分はあるでしょう。指導者なら、似た特性を持つ子の対応に生かせるかもしれません。でも、わざわざそこまで求める人は少ない気がします。
「区別と差別は違う」
障害者の声に対してよく言われる言葉です。違いは仕方ないし越えられない壁はある、だから差別ではなく区別しているだけなのだと。なんというか、双方が歩み寄れる境界線がどこかにあって、必要以上に踏みこむと領域侵犯のようにブザーが鳴る光景が浮かびます。
僕も、ムリに参考にしてほしいとは思いません。ただ、その一方で、自分のなわとびをあきらめてしまいたくはありません。障害と同じで、クセや年齢は完全に治るもの ―― 解決するものではないにしても、いくらかでも緩和できるものだと思いたい。だから失敗しても繰り返して探ろうとするし、ささやかな光明が見えれば書き残しています。
以前、あるかたが書かれていました。
―― あるものをないことにはしない
普通の人向けには、プロのかたを始め、書ける人が書いているし、動画だってあります。コロナのころに、個人でも楽しめるスポーツとして機運が高まったのもあるでしょう。そこはもう、どんどん広がっていけばいい。
その一方で、できない側としてどんなアプローチがあるのか。それを試しているとも言えます。がっつり取り組んでるわけではなく、何か見えてくるものがあればいいな、くらいの、やっぱり願いに似た視線かもしれませんが。
「できない = ないもの」と烙印を押してしまうことだけはしたくないし、書き残すことでその悲しさを避けられるなら、跳んで、書いていきたい。そこだけは確かな願いです。